その6『不滅のクーラウ』を訪ねて

 


 

第1回クーラウ詣りツアー(1996年6月19日~7月1日)

その1

その2

その3

その4

その5

その6


クーラウにささげる花・香・音楽



クーラウ詣りツアー(その6・最終回)
 石原 利矩

 最終回において
 この連載も最終回を迎えた。「クーラウ詣りツアー」が行われた1996年6月から数えると既に1年以上が過ぎ去ってしまった。連載を始めたときはツアーから帰ったすぐ後だった。振り返って今までの記事を読み返してみると次のような事柄が書かれている。
 第1回「妖精の丘」観劇(前編)第25号
 第2回「妖精の丘」観劇(後編)ブスク氏宅パーティ第26号
 第3回クーラウのこと・ブスク氏レクチャー(第27号)
 第4回クリスチャンセン氏のセミナー(第28号)
 第5回リュンビュー演奏会・大道芸(第29号)
 こうして見るといくつかまだ述べていないことがある。自分には興味がある話でも読者には面白くない話かもしれない。例えば、家族のお墓をお参りした、などという話は他人にはどうでもいい話である。しかし、クーラウの墓参りとなれば、少しは興味を持って読んでくださることだろう。

クーラウの墓(アシステンス教会墓地)

 墓前演奏
 トラーネの伝記によると、「クーラウは1832年3月12日、夜7時45分頃、ニューハウンで死亡し、3月18日、サンクト・ペトリ教会で葬儀が行われ、死のちょうど一年後、アシステンス教会墓地に埋葬された」と書かれている。当時はコペンハーゲンの町は城壁に囲まれていた。サンクト・ペトリ教会は城壁の中の地域、アシステンス教会墓地は城壁の外にあった。
 アシステンス教会墓地に埋葬される前の1年間はどこに遺体が置かれていたかということを、私は永年不思議に思っていた。このことについては「ザ・フルート」の第二号に書いたのだが(創刊号と第2号でクーラウのことを連載)そのとき(1992年)、私はサンクト・ペトリ教会を訪ねて、クーラウが教会に付属する遺体安置所に1年間置かれていたことをつきとめた。そしてクーラウの友人達が基金を募り、墓石をアシステンス教会墓地に建立し、やっと埋葬が出来たのである。
 今回の「クーラウ詣りツアー」はツアーの名前が示すごとく、クーラウのお墓をお参りする事から始まった。コペンハーゲンに到着した日は既に夕方であったので、翌日の朝お墓参りをすることにした。まず、サンクト・ペトリ教会を訪ね遺体安置所を見学し、それからアシステンス教会墓地へ行くことでバスをチャーターしていた。残念ながら丁度その時期サンクト・ペトリ教会は改築工事が行われていて、遺体安置所を参観できなかった。これはブスク氏から事前に聞いていたが、「外からだけでも」と、その建物を遠巻きにして眺めるだけにし、すぐさまアシステンス教会に向かった。
 墓前演奏曲は東京で事前練習を行っていた。クーラウの作品を数曲用意した。「葬送行進曲」、「アンチ・ケルビニスムス」、「狩人の合唱」、「魔女の歌」、「精霊の合唱」などをフルート合奏用に編曲した。ブスク氏からこの日、墓前演奏をする旨を、お墓の事務所に前もってことわってもらっていた。我々が墓地の事務所に着いたときは、こんな団体は珍しかったのだろう。墓地の管理事務所の人達も、一緒にお墓までついてきてくれた。そして演奏が終わるまで興味深く取りまいていた。日本から持参したお線香をたき、その朝花屋で買った花束を墓前に捧げる中、クーラウの曲が流れた。演奏中、代わる代わる全員がお線香をあげた。この地面の下でクーラウが我々の演奏を聴いてくれているという思いで、皆一生懸命演奏した。墓地を散歩している人たちが集まって来て、思いがけなく拍手まで頂いた。アシステンス教会墓地はコペンハーゲンでは一番大きい由緒ある墓地で、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(童話作家)、キェルケゴール(哲学者)、ニールス・ボア(量子力学)等の著名な人達が眠っているところである。墓前演奏後広い敷地を散歩をし、その人達のお墓などを見学した。
 すっかり墓前演奏の敬虔な雰囲気に気をよくした一行は、「先生(私のこと)の時もやってあげる」などと言っていた。
 有り難う、有り難う。

花と線香を墓前に
竪琴を持ったミューズの女神を囲み
音程よりも心意気

 アンケート
 このツアーは常に勉強であった。決して人を休ませてくれない。往路の機内で既にその勉強が待っていた。「妖精の丘」をどの程度事前に読んでいるかを私は知りたかった。そのため、読んでいなければ分からないことをいくつか設問して、答案用紙を全員に配った。この効果は大きかった。皆、高藤直樹氏の翻訳本を手荷物から取り出して読み直し始めた。その他にもクーラウに関する設問もあった。そのひとつをここでご紹介しよう。
 「クーラウさんがあなたと結婚したいといっているんだけど、どうする?」というものであった。
 クーラウは生涯結婚をしていない。恋愛に関してトラーネの伝記に、若いとき女優トムセンに恋をして失恋したことが数行述べられているだけである。伝記作家としては面白くないことであったろうと想像する。人がクーラウになぜ結婚をしてないかを訊ねると「そんなことしている暇はないんです」というのがいつもの答えだったそうである。そんなことからホモ説もでる始末である。これに関して、ブスク氏は「そうであったかも知れないし、そうでなかったかも知れない」とあいまいな言い方をしている。
 さて、この程度は全員の予備知識にあったことをお伝えして、いかに現代っ子がこれに反応したかをご紹介しよう。もちろん、お遊びとして読んでいただきたい。

 断った人
 「そんなことは、ヨーセーの丘」(M.T)
 「そんな大事なことを人に頼むような人はいやです」(A.T)
 「ホモは嫌いと伝えてください」(A.Y)
 「結婚したいけど、苦労(クーラウ)しそうだからやめておきましょう」(T.K)
 「また今度ね」(Y.H)
 受け入れた人
 「クラッ!ウッ!私なんかでよろしければ」(J.O)
 「クーラウさんは片目なのに、私を結婚相手に選ぶとは、すごく目がいいんですね。女の人を見る目がありますよ。もちろん結婚しますよ」(M.S)
 「『あなたの片目になりたい』とお伝え下さい」(J.U)
 断ったのか受け入れたのか分からないが、全員に受けたものはなんといっても、
 「先生、私の勝ちね」(M.U)
 であった。
 ハイ、負けました。

 パーティ
 我々ツアーの予定には何回かパーティが組まれていた。
 レストラン「妖精の丘」絵の会食。「妖精の丘」観劇前の鹿公園の近くのレストラン「ペーター・リーブ」に於ける会食、ブスク氏宅パーティ、演奏会打ち上げ(ショートステイお別れパーティを兼ねる)、ロングステイ最後の晩餐会などである。
 パーティなどは内々のことであまり面白くない。しかし、パーティもこのツアーの彩りを添えるものであった。一行の気持ちをまとめるためにも、日程の合間に全員が集まる機会を何回か作る必要があった。
 墓前演奏をしたその日、夕方からクーラウ詣りの中の最初のパーティが行われた。ブスク夫妻、トーケ・ルン・クリスチャンセン氏の家族を交え、パーティをすることになっていた。準備の段階で大変お世話になり、またこれからコペンハーゲンでいろいろお世話になる人達である。このツアーは何から何までクーラウづくしであったが、このパーティもニュウハウンのクーラウが息を引き取った家で行うことになっていた。とは言ってもその部屋ではない。息を引き取った部屋のすぐ下の階に「妖精の丘」という名前のレストランがある。更にその下の階は「クーラウ」という名前のカフェ・バーがある。ニュウハウンの23番地、運河沿いに建っているからすぐ分かる。この建物の壁に「この家でクーラウが没した」と一枚の金属板に書かれている。
 メンバーは多士済々で弁護士(T.K)さんもいればスチュワーデス(Y.T)さんも含まれていた。この弁護士さんはスピーチがお好きで要所要所の場面で格調高い挨拶をして下さる。英語の堪能なスチュワーデスさんが同時通訳をしてくれる。おかげで私はずいぶん楽をされてもらった。

顔合わせパーティ・レストラン「妖精の丘」
トーケ先生ご家族・奥様、シモン君、アンドレアス君
スピーチで大活躍のK氏と通訳のY嬢

『妖精の丘』観劇前の会食・レストラン「ペーターリープ」

 この中でも、リュンビューでの演奏会の後のパーティは盛大に行われた。リュンビュー市街からバスで15分ぐらいの所にレストラン「レガッタ」がある。本当はレストラン経営の遊覧船に乗るはずであったが、日曜日で船が運休していた。しかし、バスで移動してもそのロケーションは素晴らしかった。湖畔に面した広々としたレストランは我々だけの貸し切りであった。日曜日閉店を無理やりお願いしたのである。このパーティはツアーに関係した現地の人を含め、フルメンバーの出席のうちに行われた。ブスク氏の義弟のボイエ氏がギター持参で参加した。デンマークの歌やに日本の「さくらさくら」などを演奏して会を盛り上げてくれた。中でも法被(演奏会終了後にブスク氏に進呈したもの)を着たブスク氏とモモ(例の魔女)の即興のダンスは見ものであった。
 演奏会が終わった開放感とショートステイの人達とのお別れで、時間のたつのも忘れてしまうほど楽しいパーティであった。

ツアー参加者全員が出席したパーティ・湖畔のレストラン「レガッタ」にて

 クーラウ記念コンサート
 さて、ここで今年6月22日浜離宮朝日ホールで行われた「クーラウ記念コンサート」(プレルル第一回)の話をしよう。このコンサートはクーラウ詣りツアーから帰ったあとに計画された。ツアーに参加したメンバーからデンマークで大変お世話になったブスク夫妻を、日本にご招待しようと言う声が持ちあがった。我々の申し出を気持ちよく受け入れてくれたブスク氏夫妻の日程は6月の後半ということになった
 偶然にもクリスチャンセン氏が楽器の件で来日することが決まった。それがブスク夫妻の滞在日程と重なったことにより、このコンサートが決定されたのである。
 私は、クーラウのオペラ『ルル』の美しさに魅了され、いつか日本で上演したいという気持ちに駆られていた。オペラ上演はそんなに簡単なことではない。何年かけてもいつか実現させたいという夢を描いている。しかし、そのとき「クーラウってだーれ?」などと言われないように、彼の素晴らしいさを多くの人に知ってもらいたい、そんな所からこのコンサートを『ルル』公演の第一歩にしたいという意味で副題に「プレルル」と命名させてもらったのである。

1997年6月22日・第1回プレルル・コンサート(浜離宮朝日ホール)

 この演奏会のために新聞社に送った文面を紹介する。(下枠内)

 クーラウ詣りツアーがなければこのコンサートはこんな風に行われなかったであろう。クーラウ詣りを通してすばらしい人々、心温まる色々な事柄にめぐり合う事が出来た。私の人生で最も思い出に残る旅となった。
 連載を読んで下さった方々、長い間おつき合い下さいまして有り難うございました。(終わり)

 

プレルルコンサートの新聞記事より

 フリードリヒ・クーラウ(1786-1832)といえばピアノを演奏する人にとってすぐソナチネが思い出されます。フルーティストに取っては彼のフルート作品で有名になっています。▼しかしその本当の姿はあまり知られていません。いや、多くの誤解に包まれて歪曲(わいきょく)されていると言っても過言ではありません。最もよく聞かれる誤解は彼がフルーティストであったというものです。特にフルーティストからそう思われている場合が多いのです。作曲家として扱われていても、音楽史の中では片隅に追いやられた群小作曲家の一人と見なされています。▼彼の作品ジャンルは多岐にわたっています。シンフォニーを除けば当時の他の大作曲家達が手がけているジャンルを網羅しています。しかし、その作品の多くの楽譜が絶版になっているということで、彼の真価が評価されてない原因になっています。▼クーラウは1786年ドイツのユルツェンで生まれ、青年時代をハンブルグで過ごし、1810年以降の後半生をデンマークで活躍した作曲家です。▼近年、そのオペラ作品の評価が高まっています。特に1823~24年に作曲されたオペラ『ルル』は彼の劇場作品の最上のものとしてCDなどで聞くことができるようになりました。中略(「妖精の丘」のこと)中略(ベートーヴェンとの面会のこと)(カノンのこと)中略(音楽史見直しのこと)この度デンマークから、クーラウの研究家で世界的に有名なゴルム・ブスク氏と北欧きってのフルートの名手、トーケ・ルン・クリスチャンセン氏が来日致します。▼全てクーラウの作品です。中略(当日のプログラム)▼尚、この演奏会には「第1回プレルル・コンサート」と言う副題が付けられています。クーラウの劇場作品の中で最も優れた作品、オペラ『ルル』をいつか日本で上演したいという夢と、このコンサートをその第一歩とする気持ちを表した命名です。

ステウンス地方に実在する「妖精の丘」(天然記念物)

クーラウ詣りツアー(その5)
 石原 利矩

音楽史博物館に掲示されていたリュンビューの演奏会のポスター

 温かく迎えられたリュンビューでのコンサート
 1996年6月24日
 ここはリュンビューの図書館に付随するホールである。
 私たちはクーラウのゆかりの地リュンビューで演奏会をすることが前から決まっていた。出発前に参加者の練習が行われた。参加者が全国から集まるため回数を多く行うことは難しかった。それでもレクチャーを兼ね東京に2度集まった。しかし、盛りだくさんのプログラムのため出発前に全曲を完成させる事は難しかった。後はコペンハーゲンに着いてから練習をすることになった。ツアーの日程が過密スケジュールになったのはこの練習が現地で行われたからである。

コペンハーゲンでの練習・トーケ先生も聴いている
練習は市内の教会の一室で行われた

 プログラムは以下の通りである。このツアーの主題はクーラウであった。クーラウの曲が中心になったのは言うまでもない。当日の司会役をトーケ・ルン・クリスチャンセン氏が引き受けてくれた。

プログラム

1. 日本童謡「あんたがたどこさ」の主題による変奏曲
城谷 正博作曲
指揮:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員

 2. 四重奏 作品103 第1楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - 内藤 友紀子
II - 薄田 真希
III - 大須賀 淳子
IV- 田代 あい

 3. 「ルル」ファンタジー
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
I - トーケ・ルン・クリスチャンセン
II - 永見 恵子
III - 石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹

 4. 三重奏 作品90 第1楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - 熊谷 永子
II - 橋本 有里
III - 菅沼 晴子

 5. 「ルル」組曲より
ブラブーラ・アリア
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
フルート:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹

 6. スケルツォ 作品122 第3楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
I - 高橋 雅博
II - 桐原 直子
III - 滝沢 昌之
IV - 河野 洋子

 7. 二重奏 作品102 第2楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - マリン・ノルドロフ
II - トーケ・ルン・クリスチャンセン

 8. 『妖精の丘』よりバレー音楽
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:トーケ・ルン・クリスチャンセン
指揮:トーケ・ルン・クリスチャンセン
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員

 9. 日本民謡メドレー
編曲:杉浦 邦弘
指揮:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員

2. 四重奏 作品103 第1楽章
8.『妖精の丘』よりバレー音楽
3.「ルル」ファンタジー
9.日本民謡メドレー

 このコンサートは入場料は無料であった。リュンビュー図書館の館長さんは以前私がデンマークを訪ねるたびにお目にかかっていた女性だ。彼女はクリスチャンセン氏と共にこのコンサートを押し進める役割を果たしてくれて、演奏会のポスターも作ってくれていた。このポスターはコペンハーゲン市内の音楽史博物館にも掲示されていた。150人位の聴衆が我々の演奏を聴きにきてくれた。勿論ブスク氏夫妻一家も聴きに来てくれていた。この演奏会はリュンビュー放送局が録音をし、後日オンエヤーされた。私は最後の曲、日本民謡メドレーの直前に黒服の下に祭り囃子の法被を誰にも悟られないように着用した。ステージに出る間際に黒服を脱いだ。演奏者からも客席からもびっくりした声があがった。この法被はブスクさんの気に入ったようなので演奏会終演後、彼にプレゼントした。
 演奏会は幾分長いものとなったが聴衆から温かい拍手をいただいた。
 終演後客席から一人の男の人が手をさしのべた。驚いた事にダン・フォグ氏とレーネ夫人であった。ダン・フォグ氏はクーラウの作品カタログの編纂者で、作品番号の付いていないクーラウの作品を整理しDFナンバーを付けた人である。楽譜の研究で博士号を持ち、クーラウについて造詣が深い。コペンハーゲン市内に古楽譜の店を経営している。北欧随一、いやヨーロッパでも有数な古楽譜専門店である。私がデンマークへ行くと必ず訪ねる人である。クーラウの初期のフルート曲「花」の楽譜を以前私にプレゼントしてくれた人だ。彼らもこの音楽会を大変喜んでくれた。
 滞在中にお店を訪ねることを約束して別れた。

 クーラウの筆写譜と感動の対面
この旅行中に音楽史博物館と王立図書館を訪ねたことも述べなければならない。音楽史博物館ではホルネマンのクーラウの肖像画、ベートーヴェンが1825年にクーラウに献呈した署名入りのポートレイト、左目の失われた(?)クーラウの肖像画などを見ることが出来た。一方、王立図書館にはクーラウの殆どの作品がここに所蔵されている。図書館の司書の人達は非常に親切である。何年も通う内すっかり顔なじみになってしまっていた。今回閲覧を頼んだのはクーラウのオペラ「ルル」のスコア、カライドアクスティコン、フルートカルテット作品103のパート譜などであった。実物を目の前にして皆、溜息をついていた。

王立図書館・閲覧室
 

 ダン・フォグ氏の古楽譜専門店は宝の山
 そして演奏会の数日後、約束のダン・フォグ氏の店を訪ねた。トーケ・ルン・クリスチャンセン氏の講習の合間に行ったので全員は行けなかった。ダン・フォグ氏は同道者の全員に『妖精の丘』のピアノ譜の復刻版を演奏会のお礼だと言って一冊づつプレゼントしてくれた。まさか、あの『妖精の丘』の楽譜が手にはいるなどと予想もしていなかった同道者は思いがけないプレゼントに大喜びだった。

ダン・フォグ氏の店。プレゼントしてくれた『妖精の丘』のピアノスコア復刻版を手に

 そのお返しにと言うわけでないが古楽譜を買うことになった。ダン・フォグ氏が奧の棚から出してくれた楽譜をめくっていく内に皆の顔がだんだん真剣になっていった。
 お弟子さんの一人がここで大変なものを見つけたのである。
 その時の様子を実況報告しよう。
 妖精と言われていたモモ(クーラウのオペラ「ルル」を「モモ」と言うのでこのあだ名がついた音大生)が手書きの楽譜を持ってきて
 モモ「先生、この曲アンデルセンて書いてあるけどなんて言う曲ですか」
 私「さて、何だろう。作品番号は?」
 モモ「書いて有りません」
 私「ちょっと見せてごらん。ムムム---」
 モモ「先生、どうしたんですか」
 顔色の変わった私の顔を見てモモは事の大事に気がついたようだ。
 私がここで、これは現在出版されているから現代譜で買うことが出来るよ、と言ってしまえば彼女は簡単に手放すだろう。それは目に見えていた。しかし、それは私の良心が許さなかった。
 この譜面はアンデルセンの弟子の一人が筆写したものである。2曲の連作である。「エレジー」と「夕べの歌」と書かれていた。私はアンデルセンの作品は手に入るものは殆ど所蔵しているつもりであった。しかし、その曲は見覚えもないし、作品カタログににも載っていないものである。明らかに新発見である。
 私はモモに交渉をした。それを譲ってくれないかと。しかし、彼女はその楽譜をにぎりしめて譲らなかった。
 それまでは、私は彼女の事を「妖精」にたとえて話をしていた。しかし、それ以後は「魔女」となった。しかし、このやさしい魔女は帰国してからそのコピーを私にくれた。

 出版をするのは今や私の義務となった。


(著者注:手書き譜のコピーから印刷用楽譜に直したもの) 
ヨアヒム・アンデルセン作曲「エレジー」(未出版)
ヨアヒム・アンデルセン作曲「夕べの歌」(未出版)

 ツアー御一行様大道芸初体験
 1996年6月28日18:00。ここはストロイエ。コペンハーゲンの一番の繁華街。歩行者天国は全世界にここから始まったという由緒ある通りである。東京で言えば銀座通りの4丁目の交差点に当たるだろうか。
 ロイヤル・コペンハーゲンの本店の真ん前の通りである。
 フルートを持った約25名の変な日本人が今や何かしでかそうと道路に譜面台を置いて待っている。そばにクラヴィノーヴァが置かれている。その中央に水色の法被を着た男が立っている。背中には赤い祭りと言う字がいやに目立つ。道行く通行人は物珍しそうにそばに集まり、取り囲んでいる。突然歓声が湧いた。その方向を見ると電気コードを片手にさげた日本人の女性が走ってくる。そしてクラヴィノーヴァにコードをつなぎもう一方のコードのはじを持ってある店の中に入って行った。しばらくするとクラヴィノーヴァの和音が路上に鳴り響いた。皆の顔に安堵の色が浮かんだ。
中央の男が腕を上げた。そしてデンマーク国歌が鳴り始めた。通行人は観光客の外国人が多かったように思われるが、国歌が終わると拍手が湧いた。再び中央の男が腕を上げた。それは「君が代」だった。フルート全員のユニゾンだった。
それから約40分の間に演奏された曲は「あんたがたどこさ」による変奏曲、日本民謡メドレー、『妖精の丘』バレー曲などであった。
演奏の途中からバス・フルートのケースのふたが開けられ道路の真ん中に置かれた。周りを取り囲んだ人達が時々前に出てそのケースにコインを入れ始めた。
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 アクシデントにめげず一行の夢実現
 もうお分かりかもしれないが、この中央の男というのは私のことである。フルートを持った人達というのは「クーラウ詣りツアー」の参加者である。

ストロイエのど真ん中・注目を集める最高の演奏場所・まさかこんなことが出来るとは

 ツアーの間にメンバーから大道芸をしてみたいと言う声が起きた。全員大道芸は初めての経験である。これからもそんな経験は出来ないかも知れないと言う思いで大道芸をすることに決めた。しかし、やりたいからと言って道路で楽器を出して演奏すればすぐ警察が取締にやってくる。事前に警察と自治体の2つの許可を得なければならない。この日の二、三日前に許可が下りたのだが、当局が指定した日と時間帯とがツアーの予定と重なり泣く泣く諦めたのだった。そして再度の申請でやっと手に入れた場所と時間帯である。これを逃す手はない。是非ともコペンハーゲンの町にフルート・アンサンブルの響きを残して帰りたい。4日前にリュンビューの演奏会は終わっていた。気持ちも解放されたところだった。
 しかし、我々の前に行く手を阻んだものがある。クラヴィノーヴァの手配と道路上の電気の確保である。
 クラヴィノーヴァはブスク氏の紹介で、あるレンタル業者を押さえることができた。議員さんも選挙に落ちればただの人、クラヴィノーヴァも電気がなければただの箱である。電源確保にツアー・コンダクターの女性がその日の午前中指定された場所の近辺の商店に交渉を試みた。ところが殆どの店はノーであった。毎日のように行われる大道芸、さらには自分たちの店の前で行われれば商売にも差し障りが出る。あまりよい顔をされなかったのは当然である。しかしたまたまある一軒のお店の経営者の奥方が日本人であったことにより我々の希望が叶えられた。そして前述の時間を迎えたのである。
 しかし、またまたアクシデントに見舞われた。現地に到着したクラヴィノーヴァにコードが付いていないではないか。すぐさま有能なツアーコンダクターの女性がデパートに走った。長い長いコードを手に持って現れた時みんなが歓声をあげたのも無理からぬことである。
 なお、法被はブスク氏に借りた。(既に所有権はブスク氏に移転していた)
 バス・フルートのケースには一体どのくらいのお金が投げ入れられたとお思いだろうか。
 あまり公表をしたくないが400クローネ(約8000円)とちょっと。クラーヴィノーヴァの借り賃が500クローネ、コード代がいくらだったかは忘れた。結局は赤字公演に終わったが、こんな経験は二度と出来ないという思いで演奏後、ホテルに帰るメンバーの顔はにこやかだった。(次号続く)

 

著者追記:第一回クーラウ詣りツアーを催してからすでに5年の歳月が流れようとしています。しかし、その思い出は私の心に深く刻み込まれています。この中にはIFKS誕生の原動力になった事柄が沢山含まれています。執筆時は、第二回クーラウ詣りツアー、第二回プレルルコンサート、『ルル』演奏会形式のコンサートなどが行われる様になるとは予想もつかないことでした。未来が見えないように人間を創りたもうた神に感謝し、IFKSがますますその輪を広げ発展していくことを願ってやみません。(2001.5.21)


長い紀行文「クーラウ詣り第1回ツアー」にお付き合いくださいまして有り難うございました。