クーラウ詣りツアー(その5)
石原 利矩
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音楽史博物館に掲示されていたリュンビューの演奏会のポスター
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温かく迎えられたリュンビューでのコンサート
1996年6月24日
ここはリュンビューの図書館に付随するホールである。
私たちはクーラウのゆかりの地リュンビューで演奏会をすることが前から決まっていた。出発前に参加者の練習が行われた。参加者が全国から集まるため回数を多く行うことは難しかった。それでもレクチャーを兼ね東京に2度集まった。しかし、盛りだくさんのプログラムのため出発前に全曲を完成させる事は難しかった。後はコペンハーゲンに着いてから練習をすることになった。ツアーの日程が過密スケジュールになったのはこの練習が現地で行われたからである。
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コペンハーゲンでの練習・トーケ先生も聴いている
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練習は市内の教会の一室で行われた
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プログラムは以下の通りである。このツアーの主題はクーラウであった。クーラウの曲が中心になったのは言うまでもない。当日の司会役をトーケ・ルン・クリスチャンセン氏が引き受けてくれた。
プログラム
1. 日本童謡「あんたがたどこさ」の主題による変奏曲
城谷 正博作曲
指揮:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員
2. 四重奏 作品103 第1楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - 内藤 友紀子
II - 薄田 真希
III - 大須賀 淳子
IV- 田代 あい
3. 「ルル」ファンタジー
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
I - トーケ・ルン・クリスチャンセン
II - 永見 恵子
III - 石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
4. 三重奏 作品90 第1楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - 熊谷 永子
II - 橋本 有里
III - 菅沼 晴子
5. 「ルル」組曲より
ブラブーラ・アリア
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
フルート:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
6. スケルツォ 作品122 第3楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:石原 利矩
I - 高橋 雅博
II - 桐原 直子
III - 滝沢 昌之
IV - 河野 洋子
7. 二重奏 作品102 第2楽章
フリードリッヒ・クーラウ作曲
I - マリン・ノルドロフ
II - トーケ・ルン・クリスチャンセン
8. 『妖精の丘』よりバレー音楽
フリードリッヒ・クーラウ作曲 編曲:トーケ・ルン・クリスチャンセン
指揮:トーケ・ルン・クリスチャンセン
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員
9. 日本民謡メドレー
編曲:杉浦 邦弘
指揮:石原 利矩
ピアノ:小埜寺 美樹
フルート:全員
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2.
四重奏 作品103 第1楽章
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8.『妖精の丘』よりバレー音楽
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3.「ルル」ファンタジー
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9.日本民謡メドレー
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このコンサートは入場料は無料であった。リュンビュー図書館の館長さんは以前私がデンマークを訪ねるたびにお目にかかっていた女性だ。彼女はクリスチャンセン氏と共にこのコンサートを押し進める役割を果たしてくれて、演奏会のポスターも作ってくれていた。このポスターはコペンハーゲン市内の音楽史博物館にも掲示されていた。150人位の聴衆が我々の演奏を聴きにきてくれた。勿論ブスク氏夫妻一家も聴きに来てくれていた。この演奏会はリュンビュー放送局が録音をし、後日オンエヤーされた。私は最後の曲、日本民謡メドレーの直前に黒服の下に祭り囃子の法被を誰にも悟られないように着用した。ステージに出る間際に黒服を脱いだ。演奏者からも客席からもびっくりした声があがった。この法被はブスクさんの気に入ったようなので演奏会終演後、彼にプレゼントした。
演奏会は幾分長いものとなったが聴衆から温かい拍手をいただいた。
終演後客席から一人の男の人が手をさしのべた。驚いた事にダン・フォグ氏とレーネ夫人であった。ダン・フォグ氏はクーラウの作品カタログの編纂者で、作品番号の付いていないクーラウの作品を整理しDFナンバーを付けた人である。楽譜の研究で博士号を持ち、クーラウについて造詣が深い。コペンハーゲン市内に古楽譜の店を経営している。北欧随一、いやヨーロッパでも有数な古楽譜専門店である。私がデンマークへ行くと必ず訪ねる人である。クーラウの初期のフルート曲「花」の楽譜を以前私にプレゼントしてくれた人だ。彼らもこの音楽会を大変喜んでくれた。
滞在中にお店を訪ねることを約束して別れた。
クーラウの筆写譜と感動の対面
この旅行中に音楽史博物館と王立図書館を訪ねたことも述べなければならない。音楽史博物館ではホルネマンのクーラウの肖像画、ベートーヴェンが1825年にクーラウに献呈した署名入りのポートレイト、左目の失われた(?)クーラウの肖像画などを見ることが出来た。一方、王立図書館にはクーラウの殆どの作品がここに所蔵されている。図書館の司書の人達は非常に親切である。何年も通う内すっかり顔なじみになってしまっていた。今回閲覧を頼んだのはクーラウのオペラ「ルル」のスコア、カライドアクスティコン、フルートカルテット作品103のパート譜などであった。実物を目の前にして皆、溜息をついていた。
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王立図書館・閲覧室
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ダン・フォグ氏の古楽譜専門店は宝の山
そして演奏会の数日後、約束のダン・フォグ氏の店を訪ねた。トーケ・ルン・クリスチャンセン氏の講習の合間に行ったので全員は行けなかった。ダン・フォグ氏は同道者の全員に『妖精の丘』のピアノ譜の復刻版を演奏会のお礼だと言って一冊づつプレゼントしてくれた。まさか、あの『妖精の丘』の楽譜が手にはいるなどと予想もしていなかった同道者は思いがけないプレゼントに大喜びだった。
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ダン・フォグ氏の店。プレゼントしてくれた『妖精の丘』のピアノスコア復刻版を手に
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そのお返しにと言うわけでないが古楽譜を買うことになった。ダン・フォグ氏が奧の棚から出してくれた楽譜をめくっていく内に皆の顔がだんだん真剣になっていった。
お弟子さんの一人がここで大変なものを見つけたのである。
その時の様子を実況報告しよう。
妖精と言われていたモモ(クーラウのオペラ「ルル」を「モモ」と言うのでこのあだ名がついた音大生)が手書きの楽譜を持ってきて
モモ「先生、この曲アンデルセンて書いてあるけどなんて言う曲ですか」
私「さて、何だろう。作品番号は?」
モモ「書いて有りません」
私「ちょっと見せてごらん。ムムム---」
モモ「先生、どうしたんですか」
顔色の変わった私の顔を見てモモは事の大事に気がついたようだ。
私がここで、これは現在出版されているから現代譜で買うことが出来るよ、と言ってしまえば彼女は簡単に手放すだろう。それは目に見えていた。しかし、それは私の良心が許さなかった。
この譜面はアンデルセンの弟子の一人が筆写したものである。2曲の連作である。「エレジー」と「夕べの歌」と書かれていた。私はアンデルセンの作品は手に入るものは殆ど所蔵しているつもりであった。しかし、その曲は見覚えもないし、作品カタログににも載っていないものである。明らかに新発見である。
私はモモに交渉をした。それを譲ってくれないかと。しかし、彼女はその楽譜をにぎりしめて譲らなかった。
それまでは、私は彼女の事を「妖精」にたとえて話をしていた。しかし、それ以後は「魔女」となった。しかし、このやさしい魔女は帰国してからそのコピーを私にくれた。
出版をするのは今や私の義務となった。
(著者注:手書き譜のコピーから印刷用楽譜に直したもの)
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ヨアヒム・アンデルセン作曲「夕べの歌」(未出版)
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ツアー御一行様大道芸初体験
1996年6月28日18:00。ここはストロイエ。コペンハーゲンの一番の繁華街。歩行者天国は全世界にここから始まったという由緒ある通りである。東京で言えば銀座通りの4丁目の交差点に当たるだろうか。
ロイヤル・コペンハーゲンの本店の真ん前の通りである。
フルートを持った約25名の変な日本人が今や何かしでかそうと道路に譜面台を置いて待っている。そばにクラヴィノーヴァが置かれている。その中央に水色の法被を着た男が立っている。背中には赤い祭りと言う字がいやに目立つ。道行く通行人は物珍しそうにそばに集まり、取り囲んでいる。突然歓声が湧いた。その方向を見ると電気コードを片手にさげた日本人の女性が走ってくる。そしてクラヴィノーヴァにコードをつなぎもう一方のコードのはじを持ってある店の中に入って行った。しばらくするとクラヴィノーヴァの和音が路上に鳴り響いた。皆の顔に安堵の色が浮かんだ。
中央の男が腕を上げた。そしてデンマーク国歌が鳴り始めた。通行人は観光客の外国人が多かったように思われるが、国歌が終わると拍手が湧いた。再び中央の男が腕を上げた。それは「君が代」だった。フルート全員のユニゾンだった。
それから約40分の間に演奏された曲は「あんたがたどこさ」による変奏曲、日本民謡メドレー、『妖精の丘』バレー曲などであった。
演奏の途中からバス・フルートのケースのふたが開けられ道路の真ん中に置かれた。周りを取り囲んだ人達が時々前に出てそのケースにコインを入れ始めた。
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アクシデントにめげず一行の夢実現
もうお分かりかもしれないが、この中央の男というのは私のことである。フルートを持った人達というのは「クーラウ詣りツアー」の参加者である。
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ストロイエのど真ん中・注目を集める最高の演奏場所・まさかこんなことが出来るとは
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ツアーの間にメンバーから大道芸をしてみたいと言う声が起きた。全員大道芸は初めての経験である。これからもそんな経験は出来ないかも知れないと言う思いで大道芸をすることに決めた。しかし、やりたいからと言って道路で楽器を出して演奏すればすぐ警察が取締にやってくる。事前に警察と自治体の2つの許可を得なければならない。この日の二、三日前に許可が下りたのだが、当局が指定した日と時間帯とがツアーの予定と重なり泣く泣く諦めたのだった。そして再度の申請でやっと手に入れた場所と時間帯である。これを逃す手はない。是非ともコペンハーゲンの町にフルート・アンサンブルの響きを残して帰りたい。4日前にリュンビューの演奏会は終わっていた。気持ちも解放されたところだった。
しかし、我々の前に行く手を阻んだものがある。クラヴィノーヴァの手配と道路上の電気の確保である。
クラヴィノーヴァはブスク氏の紹介で、あるレンタル業者を押さえることができた。議員さんも選挙に落ちればただの人、クラヴィノーヴァも電気がなければただの箱である。電源確保にツアー・コンダクターの女性がその日の午前中指定された場所の近辺の商店に交渉を試みた。ところが殆どの店はノーであった。毎日のように行われる大道芸、さらには自分たちの店の前で行われれば商売にも差し障りが出る。あまりよい顔をされなかったのは当然である。しかしたまたまある一軒のお店の経営者の奥方が日本人であったことにより我々の希望が叶えられた。そして前述の時間を迎えたのである。
しかし、またまたアクシデントに見舞われた。現地に到着したクラヴィノーヴァにコードが付いていないではないか。すぐさま有能なツアーコンダクターの女性がデパートに走った。長い長いコードを手に持って現れた時みんなが歓声をあげたのも無理からぬことである。
なお、法被はブスク氏に借りた。(既に所有権はブスク氏に移転していた)
バス・フルートのケースには一体どのくらいのお金が投げ入れられたとお思いだろうか。
あまり公表をしたくないが400クローネ(約8000円)とちょっと。クラーヴィノーヴァの借り賃が500クローネ、コード代がいくらだったかは忘れた。結局は赤字公演に終わったが、こんな経験は二度と出来ないという思いで演奏後、ホテルに帰るメンバーの顔はにこやかだった。(次号続く)
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