その3『不滅のクーラウ』を訪ねて

 


 

第1回クーラウ詣りツアー(1996年6月19日~7月1日)

その1

その2

その3

その4

その5

その6


感動の『妖精の丘』編

 

運河から見たニュウハウン


クーラウ詣りツアー(その3)
 石原 利矩

 しばしブスク氏の頭の中には日本語の「さよなら」は「サヨナヤ」だとインプットされていた。日本語入門の本にそう書いてあったのだからそれは仕方がない。
 これに関して後日談がある。
「サヨナヤ」の4日後(6月27日)私はブスク氏夫妻から単独でお宅に招待されていた。積もる話をゆっくりしようと言うブスク氏のはからいであった。デンマーク到着後この日までいろいろな機会にブスク氏とは会っていたのだがゆっくりと話す時間を持てなかった。ツアーの期間中メンバーと行動を共にしなかったのはその時だけであった。クーラウのこと、『妖精の丘』のこと、23日の『妖精の丘』観劇の前に行われたブスク氏のレクチャーのこと(6月21日)、このツアーのこと、人生のことなど話はつきなかった。ブスク氏宅に来るといつも夜が更けるのが早い。この日も同様であった。その日は午後6時の訪問で帰りは夜中の3時になっていた。


ブスク氏宅テラスで

 

 私はこの日「サヨナヤ」の訂正を行なった。いつまでもブスク氏の頭に間違ったことを留めさせてはいけない。ブスク氏の頭の中にある辞書はこの日、正しく書き換えられた。「さよなら」に関してはもう大丈夫である。それにつけても「ひどい日本語入門書があるものだ」と私はブスク氏に言った。その時すまなそうな顔をしてブスク氏はこう言った。「その本は君がくれたんだよ」。
 私は思い出した。1989年に初めてブスク氏と面会し別れる時、日本語の入門書がほしいと言われ、帰国してから送ったことを。元を正せばすべて私のせいであったのだ。

 「サヨナヤ」に関連してクーラウに対する誤解が思い浮かぶ。

 我々がクーラウのことをフルーティストだと誤解したとしても、それは責められるものではない。何故なら彼のことをフルーティストだと記述した音楽事典がつい最近まで出ていたのだから。さすがに現在では多くの音楽事典はその記述を書き換えているがそれでもまだ時々目にすることがある。間違ったことを伝えることは罪である。
 フルーティストと思われていたのは今始まったことではない。クーラウが生きていた時から既にその誤解は生まれていた。
 作品103のフルート四重奏の初演が行われた時のことをトラーネはその伝記(1875)の中で次のように述べている。
 「1829年、クーラウがライプツィッヒ滞在中に彼の新作の4本のフルートのためのカルテットを聴くために出版社のベーメ(ペーター社)に招かれた。その時第一フルーティストがクーラウとフルートに関する細かいテクニックについて話し合いを始めた。そして彼は、クーラウがフルーティストでないと知った時、驚きのあまり我に帰ることが出来なかった。彼は全くそれを信じようとしなかった。」
 フルーティストと思われていただけではない。クーラウに関しては間違った記述が多すぎる。
 片目を失う事故にあった年、ハンブルクに移住した年、宮廷楽師としての職種、劇場作品の作曲年、両親がデンマークに移住した年、火災に遭った年、両親の死亡年、クーラウの死亡した場所、クーラウの死亡した年、などきりがない。
 ドイツのブラウンシュヴァイクにある「マルティーノ・カテリネウム」のギムナジウムにはクーラウの在籍していた時の学生名簿が保存されている。奇妙なことにクーラウの生年月日が1785年9月11日と書かれている。丸1年早い生まれの記述である。これは私は実際に手にとって見てもいるし、写真にも収めている。
 クーラウに関して全てが解明されているわけではない。不明な部分が沢山ある。又記録には残っていても、失われてしまった作品が沢山ある。

 翻って考えてみると、我々が常日頃常識と思われているものが実は真実ではないかも知れないと言う考えに行き着く。音楽に於いても同様である。
 フルート作品を取りあげても不明な音は沢山ある。例えばバッハのソナタのh mollがその良い例である。その第2楽章のgisが現在gで演奏される場所が2箇所ある。これは現在の音楽学の考証によってその方が正しいとされているが、永年gisで覚え込んだ自分の脳細胞は初めはそれを受けつけなかった。しかし何度も聞いている内にだんだんその方が良くなってくる。恐ろしいことである。
 活字の力は強力である。楽譜も同様である。出版譜の間違いをそのまま演奏している場面によく遭遇する。
 クーラウへの誤解に接するたびに、むげに活字を信用してはならないと言う教訓を得る。音楽会のプログラム解説などはいい加減なものが多い。音楽事典でさえ全て信用できないのだから困ったものである。
 今年の6月にブスク氏夫妻が約2週間の予定で来日することが決まった。成田を飛び立つ時は間違いなく「サヨナラ」と言ってくれるに違いない。

クーラウ詣りツアーの人気者となった通称「ドラちゃん」の貯金箱---(その4)に登場

 さて、「クーラウ詣りツアー」に話を戻そう。ツアーの目的、人員構成、行事、日程などを少し説明させていただこう。
 1996年6月19日から7月1日の期間に行われたこのツアーには3つの大きな目的があった。その1番目のものは前号と前々号で述べた『妖精の丘』観劇であった。2番目にはトーケ・ルン・クリスチャンセン氏の夏期セミナーを受けることであり、3番目にはツアーのメンバーによるフルート・オーケストラのデンマーク公演であった。
 その合間を縫っていろいろなことが行われた。
*クーラウの墓参り、そして墓前演奏
*演奏会のための練習
*レストラン『妖精の丘』におけるレセプション
*市内観光
*音楽史博物館見学
*ブスク氏のレクチャー受講
*北シェラン観光
*夏至祭り
*ブスク氏宅パーティ
*リュンビューのクーラウ史跡探索
*演奏会打ち上げパーティ
*王立図書館見学
*ダン・フォグ氏の古書楽譜店訪問
*ストロイエ(東京の銀座通りにあたる)におけるフルート・オーケストラの大道芸
*マルメ(スエーデン)&ステウンス地方の本物の『妖精の丘』ツアー
*個々に設定されたオプションツアー(ヴァイキングツアー、オーゼンセツアーなど)
*お別れパーティ
 などである

『妖精の丘』にその白い岩の話が出てくるホイエルプの海岸。

浸食で崩れそうな岩壁の上に建つホイエルプ教会。

ステウンス地方にある本物の妖精の丘・ステージのイメージとの格差に一同口をあんぐり

 このツアーの参加者は38名で他にドイツ留学してる音大卒業生のA.Sさんがドイツから途中参加したことと女性ツアーコンダクターのH.Kさんを入れれば40名となった。
 この内フルートを吹かない人は8名であとの32名がフルートと言うことになる。
 フルートを吹かないのに参加した8名の内訳はフルートを吹く人の家族(母親)1、連れ合い3、友人2、ピアニスト1、ツアーコンダクター1である。
 フルートを吹く32人の内訳は音大生8、音大卒業生9、プロ6、アマチュア9となった。 

 このツアーはロングステイとショートステイの2つのグループが設定されていた。仕事が忙しい社会人のためのショートステイは6月25日にはコペンハーゲンを出発して帰国しなければならなかった。6名がショートステイを選んだ。(フルートを吹く人4、吹かない人2)
 宿泊はニューハウンの近く、港に面した「ホテル・アドミラル」で昔の穀物倉庫を改造したものだと言う。ロケーションと言い雰囲気と言い素晴らしいものだった。

 
宿泊したアドミラル・ホテル

 

 6回連載のこの記事はツアーの日程の順に書いてはいない。順不同である。しかし、流れを理解していただくため参考にこのツアーの日程表を掲げておく。

クーラウ詣りツアー日程表

 前々号と前号の2回で『妖精の丘』について述べた。それに関連して我々の観劇(6月23日)の二日前に行われたブスク氏の事前レクチャーのことを述べなければならない。『妖精の丘』を見る前にクーラウの劇場作品についてブスク氏の話を聞きたいことを出発前にお願いしていた。ブスク氏は快く引き受けてくれた。会場はブスク氏が勤務しているコペンハーゲン大学の音楽研究所の視聴覚教室を手配してくれていた。6月21日午後3時から2時間の予定であった。通訳はあまり自信がなかったが私がやるはめになった。カセットテープやCDや本人のピアノ演奏が加わりドイツ語で進行した。

レクチャーが行われたコペンハーゲン大学音楽研究所・正面玄関
 
事前の内容を教えていただいているので通訳はスムーズ。
クーラウのことは全て頭にインプットされているブスク氏

 「イラッシャイマセ、デンマークヘ!」(日本語で)で始まったこのレクチャーは大きく2部構成されていた。前半はクーラウの生涯について、後半はクーラウの劇場音楽についてである。ことに2日後に観る予定の『妖精の丘』は詳しく言及された。
 生涯についてはツアーのメンバーは出発前のレクチャー(2回に分けて私が行なった)で予備知識があった。しかし後半の劇場音楽については、新しく耳にすることが多く興味深いものであった。
 後半の部分を要約してみよう。総論はオペラの歴史、デンマークのオペラ史、クーラウの音楽史的位置、劇場作品に対する取り組み方、で各論に入り、ハンブルク時代のオペラ「愛の勝利」(1804)、デンマーク時代の「盗賊の城」(1814)、「魔法の竪琴」(1817)、「エリサ、又は愛と友情」(1820)、「ルル」(1824)、「ウイリアム・シェイクスピア」(1826)、「フーゴーとアーデルハイド」(1827)、「ダマスカスから来た三つ子の兄弟」(1830)、そして年代順ではなく『妖精の丘』(1828)を最後の項目に置いて説明したものだった。
 「ルル」の項目で「魔女の歌」が、いわゆるデンマークのロマンスと呼ばれる6/8拍子の音楽が一般に広まっていたという背景の中で作曲さたことや、クーラウが他の作曲家の楽曲の小節の順番を入れ替え借用して自作に取り入れていることなど私には大変興味深かった。
 そしてこの講演の最後にブスク氏は我々に粋なプレゼントをしてくれた。ブスク氏の当日の話を再現してみよう。
 「---この講演の締めくくりとして、クーラウの序奏とロンド「コペンハーゲンの魅力」作品92を私が演奏しようと思います。これは1828年『妖精の丘』の上演の二、三ヶ月前に書かれたもので、いろいろなデンマークの作曲家の有名なメロディのポップリです。クーラウ自身のものとしてはすでに聴いた「ルル」の序曲の第2主題が用いられ、最後はクリスチャン王の主題です。これは全く『妖精の丘』序曲の習作と言えるものです。
 ここでもう一度「イラッシャイマセ、デンマークへ!」(このフレーズはブスク氏の得意の日本語である)と申し上げ、滞在中にコペンハーゲンの魅力をお楽しみ下さいますよう祈っております。」
---と言ってピアノに向かった。


熱演のブスク氏、この名演は忘れることが出来ない

 

 思いがけない「コペンハーゲンの魅力」はツアーのメンバー全員が心を打たれた名演奏だった。拍手が鳴りやまなかった。あまり拍手が続くのでブスク氏はここで茶目っ気を出し、一旦教室から出てあたかもステージに呼び戻されたように再び登場しておじぎをして皆を喜ばせてくれた。しかも拍手が鳴りやまない間に何回も。

演奏を終え盛大な拍手を受けるブスク氏
部屋から出たり入ったりアンコールの拍手に答えるブスク氏

 こうして終わってみると約3時間の時間が流れていた。
 私はこのレクチャーでツアーのメンバーがどれだけ聴いてくれるかがずっと気がかりだった。何故ならデンマークに着いた翌々日のことであり、それまで分刻みの予定が既に始まっていたし、時差の影響も現れてくるからであった。眠り込む人が出るのではないかと心配だった。しかし、これは私の杞憂に終わった。皆が真剣に最後まで興味を持って聴いてくれたのは話の内容が音楽付きで分かりやすく、またクーラウに対するブスク氏の情熱が伝わったからであろう。
 この「コペンハーゲンの魅力」作品92は、今年の6月22日(日)、浜離宮朝日ホールで行われる「クーラウ記念コンサート」においてブスク氏の演奏でもう1度聴くことが出来る。楽しみである。

 次号ではこのツアーをいろいろな場面で手助けをしてくれたフルーティスト、トーケ・ルン・クリスチャンセン氏が登場する予定である。

(次号続く)