第一回クーラウ詣りツアー

---『不滅のクーラウ』を訪ねて---
人生には様々な感動があります。
この感動を言葉に表すことは大変難しいことです。
『妖精の丘』観劇ツアーは私にとって感動の旅行でした。
もしもこの旅行を経験していなかったらその後のIFKS誕生もなかったかも知れません。
ツアーのちょうど一年後1997年6月22日に「第1回プレルル・コンサート」が行われることになったのです。
この演奏会を押し進めたのはクーラウ詣りツアーに参加された方々でした。
1999年11月29日、東京文化会館大ホールで行われた「第2回プレルル・コンサート」を契機に IFKSが発足したのは皆様ご存知のことと思います。
この記事は「ザ・フルート」誌、25号~30号に6回(1年間)に亘り掲載されたものです。出版社の許可を得てここにご紹介いたします。 なお同誌で用いられなかった写真を新たに編集して加えてあります。
「クーラウ詣り」と「クーラウ詣りツアー」は私の辞書では違う概念です。前者は「クーラウの研究旅行を個人でする」ものです。後者は「クーラウの研究旅行を大勢でする」ものです。
6回分を一度にまとめるとページを読み込むのに重くなりますので、それぞれの号に掲載されたものを別々のページにリンクするように致しました。 その1~その6まで順にお読み下さい。(石原利矩・記)

 


 

第1回クーラウ詣りツアー(1996年6月19日~7月1日)

その1

その2

その3

その4

その5

その6


感動の『妖精の丘』編

コペンハーゲン郊外・「動物公園」の狼谷にあるシンボルの大樹


その1『不滅のクーラウ』を訪ねて

クーラウ詣りツアー(その1)
 石原 利矩

 1996年6月23日19:30
 気温:14度位
 明るさ:午後3時~4時位
 大勢の人達が一本の並木道を急ぎ足で歩いている。友人、家族、恋人たち、皆一つの目的に向かって歩いている。馬車に乗ってくる人もいる。
 ここはコペンハーゲン郊外にある自然公園の中である。
 狼谷へ。狼谷へ。

 

 公園の入り口から15分ぐらい歩いただろうか。
 以前見た景色と異なる情景が目の前に現れた。仮設のテント、仮設の柵、その向こうに木材で作られた座席のある野外劇場が広がる。すでに大勢の人達が着席しているのが遠くから見えた。
 去年、ブスク氏(後述)と自転車に乗ってここを訪れた。その時は野生の鹿と老夫婦一組にすれ違っただけであった。狼谷のシンボルである大きな樫の木がそびえていた。
 今日はその樫の木は野外劇場のとなりに立っていた。
 その時とうって変わって、今日はこの狼谷には人があふれ活気を呈している。
 間もなく『妖精の丘』が始まろうとしている。

 それは10年前に始まった。
 もしも、私が10年前にクーラウの作品だけのリサイタルをしなければーーー
 もしも、私がクーラウのことをもっと知りたいと思わなかったらーーー
 もしも、私がデンマークを訪ねた時ブスク氏の本にめぐり合わなかったらーーー
 こうしてここ狼谷にいて『妖精の丘』を観ることもなかっただろう。
 しかも38名の日本人と一緒に。

 人生には、「もしも」あの時ああしていれば(あるいはああしていなければ)こうなっただろう(あるいはこうならなかっただろう)と思われる節目のようなものがある。しかしそれほど沢山は思いつかない。
 しかし、私の「クーラウに関して」はこの「もしも」が沢山ある。不思議なことにこの「もしも」は結果的にいつも素晴らしい方向を指し示してくれる。
 クーラウのことを調べ始めてから約10年が経っている。この間デンマークに5回行った。これを私はいつも「クーラウ詣り」と言っていた。1987年、1989年、1992年、1995年である。
 今年の旅行は「クーラウ詣りツアー」と言う。
 第3回目のクーラウ詣りについては「ザ・フルート」の創刊号と第2号に掲載していただいた。
 ブスク氏とのめぐり会いもその中に述べてあるが、お読みになっていない読者のためにもう一度書いてみよう。
 初めてのクーラウ詣りの時リュンビュー(クーラウが晩年過ごしたコペンハーゲン近郊の町)の図書館でブスク著「フリードリッヒ・クーラウその伝記と劇場作品」の研究書を見せてもっらった。この図書館を訪ねたのも「もしも」の一つである。

 もしも、丘の上にあるリュンビューの教会に行かなかったらーーー
 もしも教会の上から下を見なかったらーーー
 そこに図書館があるとは分からなかっただろう。
 この図書館に入って図々しくも「クーラウ」の名前を口に出さなかったらーーー
 ブスク氏の本は目の前に現れなかっただろう。
 もしも司書の女性がブスク氏の事を知っていなければーーー
 彼の住所も分からなかっただろう。

 2回目のクーラウ詣り(1989年)に出かける前に、日本から図書館で教えてもらった住所に連絡してブスク氏のアポイントメントをもらっていた。
 ブスク氏は日本から来た「クーラウきちがい」を温かく迎えてくれた。そして沢山のことを教示してくれた。
 それ以来、ブスク氏との交友は続いている。


 1989年初めてブスク氏を訪問した時の写真

 

 3回目のクーラウ詣りの時(1992年)、近々『妖精の丘』公演があることをブスク氏が教えてくれた。デンマークの新聞にもそのニュースが掲載されていた。是非ともそれを見にデンマークに行く予定にしていた。しかしその後、何故か理由は分からないがその話は立ち消えになってしまった。
 一昨年(1994年)になって本当に上演されるらしいと言うことをブスク氏から手紙をもらった。
 この話を私のコンピューターの師匠 I 氏に話したところ、「先生一人で行くのはもったいない、こんな機会は滅多にあるものではない、是非皆さんに呼びかけてみんなで行きましょう」と言う話になった。 I 氏の奥方は私の弟子でもうかれこれ25年以上もフルートを続けている人である。
 私は、日本で殆ど知られていない『妖精の丘』を見に行こうなんて思う人はそんなにいないと思った。けれども半信半疑で周りの人に話してみた。
 するとどうだろう。38名の参加者が集まった。大変なことである。これだけ集まって以前のように上演中止になったらどうしようと言う不安に駆られた。
 今年の3月になって、ブスク氏から手紙と入場券発売のパンフレットが届いた。よくよく見てみると入場券前売りの1日前の日のことであった。急遽ブスク氏に電話をして6月23日分を40枚、史上1000回目に当たる25日の分を6枚を押さえてもらった。
 もし、この手紙が1日遅れて到着していたら我々は『妖精の丘』を観ることは出来なかっただろう。何故ならこの入場券は発売と同時に売り切れになってしまったからである。
 6月14日から6月30日の連日上演されたこの『妖精の丘』はデンマーク人にとっても久しぶりのものであったし、また人気のある出し物でもあった。デンマークの王立劇場で行われた出し物で『妖精の丘』ほど上演回数が多いものは他にない。
 因みに野外劇場の公演は1942年が最後で54年ぶりであり、王立劇場の最後の公演が1978年だから18年ぶりである。6月23日の上演は998回目に当たる。

 ここまでお読みになった読者は『妖精の丘』とは一体どんな内容のものかとお思いであろう。これは私も永いことよく分からなかった。ブスク氏にあらすじを話してもらっても細部にわたって理解できなかった。それほど入り組んでいたし会話の機微はとても私の読解力では読み取れるものではなかった。
 出発までにはこのシナリオを読んでおかなければならない。何故なら上演はデンマーク語で行われるものだったからである。デンマーク語の翻訳が出来る人をずっと捜していたがなかなか見つからず途方に暮れていた。
 もしも、私がデンマーク語の学校に通い始めなかったらーーー
 ここでも「もしも」が出てくるのである。
 この4月から思い立ってデンマーク語の会話を始めた。ブスク氏とデンマーク語で話したいと言う途方もない目論見である。
 なんと、その学校で翻訳家を紹介してもらうことができたのである。キルケゴールの研究で有名な高藤直樹氏である。2カ月足らずの期間に見事な名文で翻訳して下さった氏の力がなければ、この『妖精の丘』観劇もこれほど興奮しなかったであろう。

 さてそれでは、『妖精の丘』とは一体何なのだらうか。

 ここからやっとクーラウが登場してくる。
 1828年のことである。1810年末にハンブルクから移住したクーラウはすでにデンマークの音楽界で押しも押されぬ中心的作曲家として認められていた時期である。この年フレデリック4世の皇女ヴィルヘルミーネと皇太子フレデリック(後の7世)の結婚式が行われることになった。王立劇場当局はこの祝祭のために新しいシナリオを当時有名な何人かの文学者に提出を求め、その中でルーズヴィー・ハイベア(1791~1860)の『妖精の丘』が選ばれた。そしてこの戯曲の音楽の作曲にクーラウに白羽の矢が当たったのである。
 その年の7月30日に作曲が開始された。約2カ月の間作詞家と作曲家の共同作業のもと10月1日に劇場に提出された。
 結婚式が近づいてくるとコペンハーゲンではお祭り気分が高まり、家々は飾られ、お祭りの照明や松明行列などが行われた。
 1828年11月6日ついに『妖精の丘』の初演が行われた。


 1828年王立劇場の初演風景

 

 何千ものランプが点され軍楽隊がバルストゥレーデで演奏しコンゲンスニュトー(王様の新しいマーケット)は人々で満ち溢れた。この祝祭劇が王立劇場の非常な大成功を博すものになるとは当時誰にも分からなかったことである。そしてこれは900回以上という王立劇場の一番上演回数の多いものとなった。さらに地方の記録に残っていない上演や愛好家たちの劇場での上演を数えれば1千回以上になるだろう。特に第二次世界大戦の占領下において『妖精の丘』は民族意識の結集の役割を果たしたのである。
 初演の配役は劇場の一流の俳優によって占められた。例えばアグネーテを後のハイベアの夫人ヨハンネ・ルイーセが演じた。彼女は前世紀の最も有名な女優である。

ルイーセ・ハイベア

 この戯曲を音楽面でバックアップしたクーラウの働きも非常に重要なことである。北欧の民謡を取り入れ、且つ自作の曲を挿入しいわば編曲家、作曲家の二役を同時にこなし、その音楽が違和感なく融合し合い劇的情感を高めた功績はクーラウの名前をデンマークで不滅なものにしたのである。ちょっと聞いただけではどの曲がクーラウのオリジナルか民謡の編曲か判別が難しいほどである。

 

ルーズヴィー・ハイベア
フリードリヒ・クーラウ

クリスチャン4世
フレミング
アグネーテ
エリーサベト
エッベセン
モーウンス

 さて、それではこの戯曲のあらすじを述べてみよう。
 文学作品としても非常にレベルの高い作品である。これがデンマーク国外へ流出しないのが不思議なくらいである。
 複雑なので私が先ず非常に簡単に要約してみよう。
 ーーー古くから伝わる民話の妖精の王と、史実のデンマーク国王クリスチャン4世を登場させ、王様が取り決めた結婚話によって相思相愛の二組のカップルに降り懸かる困惑とその解決ーーーである。
あっと言う間に終わってしまった。
 これでは訳が分からない方は、ブスク氏の要約を読んでいただきたい。

 ブスク氏の要約
 登場人物
 クリスチャン4世:デンマーク国王
 エーリク・ヴァルケンドーフ:ステウンス地方ホイストルプの領主
 エリーサベト・ムンク:彼の被後見人
 アルバート・エッベセン:トリュゲヴェレの国王の代官
 ポウル・フレミング:国王づきの侍従
 ヘンリク・ルズ:国王づきの侍従 
 カーレン:トリュゲヴェレの農夫の妻
 アグネーテ:彼女の娘
 ビョーン・オルフソン:ホイストルプの執事
 モーウンス:狩人
 農民、廷臣、小姓、騎士、貴婦人たち。

 部分的に歴史上の事実と地方の伝説に基づいているこの筋は、民衆から愛されたデンマーク王、クリスチャン4世の統治下で演じられる。このアイデアはこの王とシェラン島南部のステウンスに伝わる妖精の王が演じる現実と迷信の対立である。

 第1幕:トリュゲヴェレの或る所
 背景に見えるステウンスとの境界は橋がかかっている小川によって区切られている。前景にはカーレンの小屋がある。王様と従者フレミングは或る朝この土地を訪れる。
 ちょうどその日の晩に王様の名付け子エリーサベト・ムンクと代官エッベセンの結婚式が、彼女の後見人であるステウンスのホイストルプの領主エーリック・ヴァルケンドーフの館でとり行われようとしている。
 この結婚は王様によって決定されたのだが、それは若者達の意志に反することであった。
 クリスチャン4世はカーレンと迷信深い狩人のモーウンスから、「王様はトリュゲヴェレの小川の向こうのステウンスの妖精の王の領地には決して足を踏み入れない」というその地方に伝わる言い伝えを聞く。
 彼はエッベセンがアグネーテと密会をしているのではないかと感じ取る。
 クリスチャン4世はフレミングを結婚式で彼の代理をさせるつもりである。
 しかしフレミングはホイストルプに行ってエリーサベトと話し合うつもりである。何故なら彼等は前からお互いに愛し合っていたからである。
 エッベセンも同じくホイストルプに行って彼女との婚約破棄を取付けようとしている。

 第2幕:ホイストルプ
 ヴァルケンドーフは王様が結婚式に現れるのではないかと怖れている。しかし秘密をモットーとしているビョーンによって安心させられる。
 ビョーンはエリーサベトとフレミングが話し合えるよう計らい、エッベセンには結婚式を引き伸ばすことをエリーサベトに同意させることを取り持つ。

 第3幕:第1幕と同じ
 農民達は結婚式の祭りを祝っている。
 モーウンスはその晩、妖精の丘の宝物を掘り出そうと考えている。
  エッベセンとフレミングがそこに登場し農民達を結婚式に招待する。
アグネーテはカーレンにエッベセンを愛していることを打ち明ける。それに対してカーレンはアグネーテに自分は本当の母親ではないこと、赤んぼの彼女を森で見つけ妖精の王のモノと思ったが自分の子供として育てたことを話す。
 女は妖精の丘に埋めた指輪を知っていて、アグネーテに自由の身となるためそれを掘り出し、妖精の王様に返すことを命じる。
 クリスチャン4世は間近に迫った結婚に関しての秘密を自ら探ろうとする。そして迷信に立ち向かうためトリュゲヴェレの橋を渡る。

 第4幕:妖精の丘の夜
 モーウンスは宝物を探している。アグネーテがやってきて眠り込む。そして夢の中で妖精の王様を見る。しかし目を覚すと消えてしまう。
 モーウンスが指輪を持ってやって来る。
 アグネーテはそれを掴む。
 モーウンスは妖精が出たと思いびっくりして逃げ出してしまう。
 そこにクリスチャン4世がやって来る。
 アグネーテが持っている指輪は、彼がエリーサベトに代父の贈り物として与えたものであることを見つけ彼女を連れてすぐさまホイストルプに行く。

 第5幕:ホイストルプの結婚式のお祭り
 華やかな舞踏会。
 その間フレミングはエリーサベトから花嫁の花冠を奪い取る。
 全てが混乱に変わると、王様の到来が告げられる。
 もつれは解け二組の愛し合うカップルは王様の決定どうり結び付けられ、全員が義なる国王に忠誠を誓う。

 アグネーテ(本当のエリーサベト)が幼い時にさらわれて、その代わりにヴァルケンドーフが自分の姪をエリーサベトと偽って育てたことを最後まで伏せておいた構成がこの戯曲を興味深く見せる鍵であるように思われる。大体の内容はお分かりいただけたと思うが、それでももっと詳しく読んでみたい方は編集部までご連絡を頂きたい。高藤直樹氏の翻訳をお貸しすることも可能である。初版本はツアーの参加者に配布するだけしか制作していないので私の所有物をお貸しすることになると思う。(著者注:その後IFKS叢書第一巻として発刊された)


 IFKS叢書No.1『妖精の丘』

仮設のベンチの客席
開演前

 紙面の関係で第1回はこのへんで打ち切らなければならない。

 感動の連続だった6月19日から7月1日までのクーラウ詣りツアーをいかにして文章にするかを毎日頭を悩ませている。
 なぜなら、帰国してから人に自分の感動を伝えることがいかに難しいかと言うことが分かったからである。1カ月ぐらいは夢遊病者のようになっていた。

(次号続く)