クーラウ詣り(石原利矩)
青山フルートインスティテュートの機関誌「笛吹きたち」19号(1990年発行)から転載
「クーラウ詣り」
リュンビュー図書館
リュンビューの図書館からタクシーで10分足らずでその家の前に着きました、ヴィルム(Virum)に住むブスク氏の家です。緑に囲まれた家々のある静かな住宅地で、それはまるでおとぎ話に出てくるような可愛い家でした。今、ブスク氏に会える----。私の胸に、その2年前の第一回クーラウ詣りがよみがえってきました。
クーラウの生誕200年に当たる1986年に、クーラウのプログラムでリサイタル(注1)をしたことがありました。
(注1):1986/4/21東京文化会館小ホール
その時、トラーネのクーラウ伝記を読んで解説を書きました。この本は1875年にデンマークで出版され、その後生誕100年を記念してライプツイッヒのブライトコップフ&ヘルテル社からドイツ語訳で出版されたものです。
私がクーラウについて、もっと調べてみようと思ったのはこの頃です。そして、翌年1987年8月~9月に第一回のクーラウ詣りをしたのです。家内と一緒でした
コペンハーゲンに着いた翌日、トラーネの本の中に出てくるクーラウの墓のある「アシステンス教会墓地」を観光地図で探しました。百年以上前の文献にあった名前ですから、もしかしたら探せないかも知れないと思いながら、細かく見ていくうちに有りました。そこはクーラウが経済的理由で市内から当時の城外のノーアブローに引っ越した近くでした。
アシステンス教会の壁に掛かっている墓地の地図でクーラウの名前を探しました。ここはデンマークの有名人が沢山眠っているところです。作家のアンデルセンもいます。クーラウの同時代の作曲家クンツェン、ワイセ、シャルの名前も見られます。
うれしかったのはクーラウの名前を見つけた時でした。百年前の資料に出ているままでした。考えてみれば墓地はそうたやすく移転しないものですね。そして地図を頼りに、墓前に行きました。その時、お花もお線香も持ってきていなかったことに気がつきました。
このクーラウの墓石は、彼の死後、友人たちの基金で建てられましたが、この音頭を取った友人のハスハーゲンの手紙(クーラウの兄、アンドレアス宛て、注2)によると90リグス・ダーラーかかったのに38リグス・ダーラーしか集まらず、追悼演奏会の利益をあてにしているが、このようなことはデンマークの恥だと言って嘆いていたものです。
(注2):Andreas Christian
ライプツィッヒでタバコ工場を経営
ちょうど、死後一周忌の1833年3月12日に、それまで置かれていた聖ペトリ教会から、移してここに埋葬されたのです。
この地面の下にクーラウが居る。そう思いながら、花も線香もないことを詫びながら手を合わせました。
この時の旅行の一番の目的は、王立図書館で、現在手に入らないクーラウの絶版譜を全てコピーすることでした。毎日図書館に通い、楽譜に目を通し、コピー依頼カードに曲名を記入することでかなりの時間が費やされました。自筆譜も閲覧しました。現存するクーラウの手稿は非常に少ないのです。これはリュンビューにおける大火(注3)で、クーラウの住んでいた家も類焼を免れなかったために焼失してしまったからだと言われています。
(注3):1831/2/5
観光も何もせず、毎日図書館通いをしている亭主を家内は可哀そうと思ったか、えらいやつだと思ったか、あるいは冷たいやつだと思ったかは分かりませんが、昼間は一人で行動していました。
コピーの依頼を全部し終えたある日、クーラウが晩年の数年間を過ごしたリュンビューを、家内と一緒に訪ねました。市内からタクシーで30分位のところです。これは予定の内でした。しかし。この時はクーラウが何処に住んでいたかも分かっていませんでした。とにかく、そこに行けばクーラウが散歩した同じ道を歩けるだろう位の考えでした。
町の真中の小高い丘の上に教会が建っていました。グルッと廻って町の家々の屋根をながめ、階段を下りたところの目の前に白い小さな建物がありました。何げなく見てみると、そこに「リュンビュー図書館」と書かれた立て札が目に入りました。
ここまで来て、又図書館でもないだろうと思いながらも、ちょっと中に入って見てやろうという気持ちが湧いてきました。そして中に入っていくと、中年の女性が現れました。
私の口からでた言葉は「あなたはクーラウについてご存知ですか」でした。最初の言葉がぶしつけな疑問形で、しかもドイツ語でした。当然、変な顔をされるものと予想していました。
ところが彼女の口から、きれいなドイツ語で「勿論知っています。クーラウの楽譜はこの図書館に全部有りますよ」と返ってきました。
「まさか---」私は口をポカンと開けていたように思います。
そして、他の係りの人も出てきて、クーラウの話になりました。何故、私がデンマークに来たか、そして今、クーラウについて調べていることを話しました。
その時、最初に会った女性が書庫から、ある一冊の分厚い本を手にして現れました。表紙には、なにやらデンマーク語でタイトルが書かれていました。表紙をめくるとクーラウの肖像画がありました。確かにこれはクーラウについて書かれているものだと分かりました。
著者の名前はゴルム・ブスク。「フリードリヒ・クーラウ 伝記と彼の劇音楽分析」という題名でした。この本はその前年1986年4月に出版された最新のクーラウ研究書でした。しかし中身はほとんどデンマーク語で書かれていましたが、なにかの役に立つだろうと思い、書名、出版社を書き留めておきました。リュンビュー図書館にあるクーラウの楽譜は、王立図書館にあったものとほとんど同じものでしたが、中には違う版もあり、それらをコピーしてくれるという親切な言葉に甘え、後日取りにくることを約束してそこを去りました。
デンマーク人は親切な国民だということは聞いていましたが、こんなに温かくしてくれるのは何故だろうと不思議に思いながら、偶然のなせる導きに感謝しながらコペンハーゲンに戻りました。
すぐ、市内の出版元の店に行き、ブスク著の本を二冊買い求めました。その内の一冊は帰国後、国立音楽大学の図書館に寄贈しました。
ホテルに帰り、この本をじっくりながめました。ところどころドイツ語です。それはクーラウの手紙の部分でした。彼は22年間デンマークに住みましたが、生涯ほとんどドイツ語で通した人です。外国に出す手紙もすべてドイツ語。当時デンマークは大国で今のハンブルクのちょっと北はすぐデンマーク領だった時代ですから、ドイツ語は今以上に理解する人が多かったのでしょう。
それはさておき、この本は大変な研究であったろうことは想像がつきました。
その本の中にリュンビューの当時の地図があり、クーラウの住んだ場所が何ヶ所か記されていました。デンマークを発つ前の日、今度は一人でリュンビューに行き、クーラウの住んでいた場所を見当をつけ写真におさめ、再びリュンビュー図書館に寄り、コピーを受け取りました。
その後コペンハーゲンからパリに行った話は去年のリサイタル「ゴーベールの午後・パート2」(注4)で書きましたのでご存知の方も多いと思います。
(注4):1989/12/23 東京文化会館小ホール
この時の旅行で、クーラウについての資料は集めたつもりでした。特に古本屋でトラーネのクーラウ伝記(デンマーク語)を見つけたときは飛び上がるほどうれしかったことを覚えています。
そして、その翌年クーラウのレクチャーコンサート(注5)をしたのです。この時スライドで旅行中に写したものをお見せしたのですが、3時間半もかかったリサイタルをしたのは、これが生まれて初めてのことでした。
(注5):1988/3/13 東京文化会館小ホール
人前でおしゃべりをしながら演奏するということは大変なことです。しかも、しゃべることは全部頭に入っていなければいけない。そして内容は最新の研究を紹介しなければいけない。
ということは、デンマークで買ったブスク氏の本を読まなければいけないと気が付いた時は演奏会の三ヶ月位前でした。
「やればなんとかなる」と林りり子先生の甘い言葉に乗せられてこの道に入った私です。「よし、やってやろうじゃないか」と思い立ち、それから人づてにデンマーク語の先生をさがしました。
東海大学の北欧語科に行き、そこでデンマーク人を紹介してもらう手はずをととのえて出かけました。ところが、その人が急にその日病気で大学に来れなくなってしまったのです。事を急いでいたので、ちょうどその日出校していた助手の福井信子先生という方を紹介してもらい、その日からデンマーク語の特訓が始まりました。リサイタルまでに伝記の部分だけでも読破したいという熱意に、福井先生も応えて下さいました。
ただ訳してもらうなら事は簡単だったでしょう。しかし私はこれを機に、デンマーク語を読めるようにしたいと思いました。
デンマーク語→日本語の辞書はまだ出版されていません。(注6)デンマーク語→ドイツ語の辞書をそろえ、文法書を片手にやりましたね。電車の中は勿論、仕事で旅行しても、飛行機の中で、ホテルに戻ってからと、「寸暇を惜しむ」とは、ああいう状態を言うのかと思う位でした。
(注6):この文を書いた1990年頃は手に入りませんでした。現在はあります。
私が訳したものを事前に福井先生に郵送し、それを次に読み合わせて行くというやり方で進めました。そして、この本を読んでいく内に、ブスク氏の存在が私の中でだんだん大きくなっていったのです。
この人はいったいどんな人だろう。この研究で博士号をとったと言うが。気むずかしい人なのだろうか。これだけ丹念に、クーラウの事を調べている人なら、おそらく苦虫をかみつぶしたような本の虫に違いない。などと勝手にイメージを頭の中で描きながら、レクチャーコンサートの直前に、この本の伝記の部分を訳し終えました。ですから、当日しゃべった内容には、かなりの部分ブスク氏の研究の引用があったのです。
こう書いていると、師匠はすごい、三ヶ月でデンマーク語をマスターしてしまってとお思いかも知れませんが、とんでもない。デンマーク語は発音が非常に難しいと言われている原語です。デンマーク人同士が話している時は全く意味が分かりません。ただ辞書を片手に、文章の内容を判読する力は少しついたかも知れません。クーラウ研究にはデンマーク語が不可欠です。何故ならクーラウについて書かれている文献の多くはデンマーク語だからです。
さて、その後クーラウに取り憑かれたようだと人に言われるほど、ますます没入していきました。しかし知らず知らず右目をつぶっていたり、我が家の愛犬ゴンベーにプレスト(注7)などと呼びかけたり、ワインを浴びるほど飲んだり----などということはありません。
(注7):クーラウの愛犬。リュンビューの大火をともに経験した。
このようなクーラウ対する思いは、合宿におけるアンサンブル曲の夜明けに及ぶデスマッチ・コンサート、津田ホールのクーラウ・アンサンブルの夕べ(注8)などに現れていたかも知れません。
(注8):1989/8/2 津田ホール
本を出版する話はとうの昔決まっているのです。シンフォニア社の南谷さんが原稿が仕上がり次第、出版を引き受けてくださることになっています。しかし、なかなか仕上がりません。そうです。やればやるほど不明なこと、もっと調べなければならないことがでてくるのです。
そして去年1989年10月~11月の第二回のクーラウ詣りをしてきたのです。この時は家内は娘、愛美の世話の方を選び、単身の旅行でした。この旅行の目的は、足りない資料(注9)のコピー、文献を古本屋でさがすこと、生地ユルツェンで行われたクーラウ・コンクールの視察、そして出来ればブスク氏に会うことでした。
(注9):トラーネの膨大な研究メモ、クーラウの手紙、フルート曲の初版楽譜など。
ブスク氏の住所はリュンビュウ図書館で前に教えてもらっていました。日本を出発する少し前に手紙を出しました。すぐ返事がきました。時間を取るからコペンハーゲンに着いたらすぐ電話するように、それからフルートを持ってくるようにと書いてありました。
コペンハーゲンの市内のホテルにチェック・インしたのが10月25日の夜でした。
恐る恐る教えてもらった電話番号を廻しました。デンマーク語だったらどうしよう。数回の呼び出し音の末、男の人の声が出ました。そうです。その人が永い間頭の中に描いてきたブスク氏だったのです。私と分かるとすぐドイツ語に切り替わりました。ちょっとしゃがれた声でした。しかし自宅までの道順の案内は親切でした。明日の面会を約して電話を切りました。
翌日、夕方ブスク氏に会う四時前までに、市内の王立図書館で、本の閲覧の手続きをし(注10)、リュンビューの図書館に向かいました。再び例の日本人が来たということで喜んで迎えてくれました。私としてはここに来なければ、ブスク氏のことも知らない内に終わっていたかも知れない大切な場所なのです。
(注10):その日に頼んだものは翌日にまわされる。なにしろ冊数が多かったので。
この時も偶然が重なりました。その翌日に、今までそこの蔵書となっていたクーラウの楽譜全部を王立図書館に譲渡する取り決めが行われる日になっていたのです。「あなたが初めてここに来たのも偶然、そしてクーラウの楽譜が移されるという時に現れたのも偶然、不思議なことですね」と言われました。王立図書館は郵送が遅いからということで、その内のフルート曲の初版本だけをコピーしてくれるという申し出を有り難く受け入れました。
図書館でケーキやコーヒーを出してもらえるなんてとても考えられませんが、リュンビュー図書館は特別でした。
そして、やっとこの文章の書き出しの個所につながる訳です。
生け垣の押し戸に手をかけるや否や、奥にある玄関の扉が開き、その人が出てきました。頭の中で描いていた、気むずかしいブスク氏とはちょっと違いました。175センチ位でしょうか。やせ気味でスマート、薄茶色の髪をしていました。私たちは固い握手を交わしました。この時、クーラウがベートーヴェンを訪ねた時(注11)の話が頭をよぎりました。
(注11):1825/9/2 バーデン滞在中のベートーヴェンをクーラウは訪ねている。
私の訪問を、ブスク氏は非常に喜んでくれました。彼にしてみれば、クーラウ気狂いが日本にも居ることに非常に興味をいだいたのでしょう。書斎とリビングルームのつながった部屋に通されました。グランドピアノが置いてあり壁には蔵書がギッシリと並び、清潔で温かみを感じさせる部屋でした。
すぐに、クーラウの話になりました。私も質問事項を沢山用意していきました。話が尽きませんでした。私の質問に、誠意をもって次から次に資料を出し、教示してくれました。気がついたら、夜の12時を廻っていました。そして、奥様の用意してくれた夕食(といっても夜中です)をごちそうになり、フルートとピアノの合奏は次の機会ということで再び訪れることを約してホテルに戻りました。
二日後に又ブスク氏宅に行きました。この日は夕方4時に訪問し、朝の4時まで一緒でした。クーラウの作品を二人で演奏しました。ブスク氏は若い頃、ピアニストになる勉強をしたと言っていました。細かいパッセージはあぶないところはありましたが、テンポルバートは非常に音楽的で、楽しい合奏が出来ました。
彼は今、ギムナジウムで音楽とフランス語を教えています。大学は総合大学の音楽科で音楽学を学んだそうです。そしてフランス留学を経験し、クーラウの研究で音楽博士となっています。
クーラウ研究は永く、作品番号と曲がすべて頭に入っています。「私の青春はクーラウだった」と言った言葉は強く印象に残っています。
彼が以前、クーラウのピアノ曲の研究で博士号を取ったハンブルクのバイムフォールを訪ねた話し、ハンブルクの図書館で当時の新聞記事からクーラウの関連記事をさがし出した時の話(マイクロフィルムを閲覧しながら睡魔との闘い、突然Kuhlauの名前を見つけると眠気がいっぺんで吹き飛んだこと)、又同じようにコペンハーゲンの図書館で当時の新聞を毎週水曜日、一年かけて読んだことなどを話してくれました。「大変なことでしたね」と言ったら「研究なんてそんなものだよ」と言っていました。それを聞いて、自分がクーラウについて調べていることは一体何なのかと頭が下がりました。
さてこうしてコペンハーゲン滞在中に、ブスク氏宅におじゃましたのは計四回を数えます。毎回、買うべき本の教示とか、必要なコピーなどを用意してくれたり、私の質問もその都度増えていき、いずれも午前様の帰館になりました。会話はクーラウのことばかりでなく、音楽全般、日本について、デンマークについて、人生についていろいろなことに及びました。
振り返ってみると、Sieで話したのは最初の日の一時間ぐらい、あとはDuになっていました。
デンマークを発つ前日にコペンハーゲン市内のニューハウンで落ち合い、それからブスク氏宅に行くということになりました。彼が指定した場所は、「妖精の丘」というカフェー・レストランでした。『妖精の丘』はクーラウが1828年に作曲して大当たりを取った演劇の題名です。このレストランの上の階の部屋でクーラウは息をひきとったのです。
そしてコペンハーゲン最後の夜はブスク氏宅で、クーラウのピアノ三重奏曲(3曲)、オペラ等、現在レコードでは聴けないものばかりテープで聴かせてもらいました。
夜中の2時まで話し込み、まるで自分の部屋に居るような気持ちになっていて、ここを立ち去ることが不思議な気持ちでした。
別れがやってきました。何分間か玄関で抱き合っていました。私たちを結びつけたものは確かにクーラウでした。しかし、ただそれだけではないような気もします。私がブスク氏に惹き付けられるのは、一つのことに打ち込む人間の生き様を見せてくれたからでしょう。
私にとって、ブスク氏との出会いは大きな出来事でした。そして、生きているかぎりこのきずなを大切にしたいと思っています。
人生には、このようなめぐり会いもあるということを知りました。
(おわり)