カール・グラウプナー著 「フリードリヒ・クーラウ」石原利矩訳

1930年に著したグラウプナー(ドイツ・ミュンヘン)の博士号取得論文です。トラーネ「クーラウ伝記」以後のクーラウ研究における重要な文献です。原文(ドイツ語)は英語のページに掲載しています。上部のボタンで切り替わります。

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前言 5
白紙 6
出典、文献 7-10
緒言 11
白紙 12
本文 13-57
付録 家系図 ハンブルクの演奏会 ポスター 58-66(付録はここをクリック
作品表 67-73
白紙 74
著者の経歴 75
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フリードリヒ・クーラウ


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 クーラウの家系には音楽を職業とした人が沢山いる(*1)。祖父ヨハン・ダニエル・クーラウ(*2)ライプツィッヒのプリンツ・ゴーティッシェ連隊のオーボエ奏者で後にヴィッテンベルゲニーメックの町の音楽家となり、そこで1789年12月1日に没した。ヨハン・ダニエル・クーラウには二人の息子があり両者とも音楽に従事した。兄のヨハン・ダニエル(1744年生まれ)はシュターデのオーボエ奏者となり後にオールボーに行き1784年デンマークの市民権を得、オールボーのブドルフィ教会のオルガニストとなり、その後同じく町の音楽家になっている。彼はここでマリア・エリザベート・ケアウルフ(オルム・ソウン1759年6月3日生まれ)と結婚をした。彼らの間にコペンハーゲンの宮廷音楽家となった一人の息子(ソーアン・ケアウルフ)があり、ヨハン・ダニエル・クーラウは1810年6月23日にオールボーで没した(*3)

  弟のヨハン・カール・クーラウはライプツィッヒで 1747年6月5日に生まれ8日にトーマス教会で洗礼を受けている(*4)。彼は1770年にハノーヴァー生まれのアンナ・ドロテア・ゼーゲルンと結婚をした。彼らの間に11人の子供が生まれたが成人したのは3人の息子と2人の娘だけだった。フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウはこの中で9番目の子供で息子の中では一番下だった。彼は1786年9月11日、ユルツェンで生まれた。そして9月13日に洗礼を受けた(*5)

 クーラウは貧乏な環境で育った。というのは父親は子だくさんで教育する費用を充分に稼ぐことができなかったから。さらには彼は純朴な単純な男であった。それに反してフリードリヒの母親は教養ある婦人で、彼は終生母親に対して慈しみを覚えていて彼に与えた影響は大きかった。


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 彼が7歳の頃、両親はリューネブルクに転居した(*6)。この地で偶然の出来事により彼の運命は決せられた。彼を音楽家にさせようとしたのかどうかは判らないが父親は前からクーラウに音楽の手ほどきはしていた。ある晩、彼は母親に何かを持ってくるように言いつかったときに暗い道で転び目を打ち付ける不幸に見舞われた。家に連れ帰られ、往診の医者から一方の目を助けるには片方の目を摘出しなければならないと宣告された。長いこと病床にしばりつけられていた。当時ユルツェンに住んでいた姉のアマリエに宛てて1798年5月21日に彼は手紙を書いている(*7)
「・・・僕はこれ以上書けません。まだすごく痛むので・・・」。
療養中の気晴らしに古いクラビコードがベッドの上に置かれた。彼は飽きることなく演奏した。間もなく音楽の素養が明らかになったとき両親はそれに気づきこの才能を彼の将来に生かそうと決めた。その他にも次に挙げる姉アマリエに宛てた手紙が示すように、すでにこの時期に強い音楽的な興味を抱いたのである(*8)
「・・・僕はすぐに新しいアリアを思いつくでしょう。そうしたらお姉さんに書いて送ります。・・・」

 健康を取り戻した後、彼はリューネブルクの聖霊教会のオルガニスト、ハルトヴィヒ・アーレンボステルにピアノの稽古を受け、更に父親からフルートを習い、両方の楽器に上達を見せた。

 リューネブルクに於いて少年はすでに作曲を試みたと言われている。あるフルート愛好家の香料商人が少年クーラウにお礼に干しぶどうと巴旦杏を上げるからと言って何か楽譜を依頼したのである。これは年端も行かない学童を喜ばせた。少年はフルートのためのいくつかの舞曲と小曲を書いた。その楽器は、後の彼の創作に重要な意味を持つものとなった。


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 トラーネによると(*9)クーラウはリューネブルクで厳格なコルマン学校に通ったと言っている。しかし、リューネブルクにはコルマンと言う名前の学校は存在していない。ただコルトマン通りにマイン嬢が子供たちに読み書きそろばんを教えている私塾があった。クーラウが子供たちに基本学科だけ教える私塾で学んだかは詳らかではないが、ブラウンシュヴァイクのギムナジウムの試験に関しての言及はある。多分、当時リューネブルクにコルマンという校長がいたのかもしれない。なぜならクーラウはある詩の中で次のように言っているからである(*10)
・・・かつてコルマン学校の生徒椅子に座って
Schwulstkuchen (*訳者注)を食べたとき・・・
恐らく彼は最初は上記の私塾に通ったかも知れないが、後に上級の学校に行った(*11)

(訳者注:Schwulstkuchenは不明。一種のお菓子?)
 その後(3月23日)、ネイティヴのドンボワ教授から教示がありました。この言葉は現在ドイツで使われていないもので、当時でさえも一般的でなく北ドイツ特有なものだそうです。北ドイツでは油で焼いたこね粉菓子、南ドイツでは卵入り焼き菓子/オムレツなどを意味するようです。Schwulstとはフライパンで焼いて縁がふくれあがっているものを指すそうです。

 1802年、クーラウはブラウンシュヴァイクに居たことが知られている。ある手紙に(*12)よると彼は当地でハーゲン教区のトロマー氏の家に寄宿していた。トロマーという人が誰を指しているのか不明である。彼は1802年においてはハーゲンの牧師ではなかったことは事実である。問題の時期におけるハーゲン教区にあるカタリネン教会の牧師はヨハン・ハインリヒ・ルートヴィヒ・マイヤー(勤務年1777-1824)とアウグスト・アントン・エオバルト・アラース(勤務年1781-1821)の二人が交互に行っていた(*13)。母親に宛てたある手紙(*14)によるとクーラウはブラウンシュヴァイクで、ある牧師の二人の息子に音楽を教えていたという。これはハーゲンの教区教会に勤務していた牧師の息子たちのことであろう。しかし、二人の牧師にはそれぞれ大勢の息子たちがいたし、記録が存在していないのではっきりと特定することができない。

 クーラウはブラウンシュヴァイクにあるギムナジウム教育方針の高等学校、カタリネウムに入学した。1802年4月2日のカタリネウムの通知(*15)により4月8日に行われた公開試験で当時「上級」と呼ばれるクラスに入った。上記のカタリネウムの教科はかなり広範囲に亘っている。


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科目にはラテン語、ドイツ語、算術と代数、幾何学と三角法、自然史、宗教と道徳、一部の学生にはギリシャ語、ヘブライ語、更にフランス語、ギリシャ語があった(*16)。クーラウがリューネブルクで私塾で勉強しただけだとしたらこの学校の教育方針としては受け入れがたいものであったろう。1796年から1802年の間の情報が欠けているのでクーラウがブラウンシュヴァイクにやって来た時期をはっきりさせることができない。リューネブルクの事故後すぐにブラウンシュヴァイクにやってきたという可能性もある。この推測はリンジングの第12歩兵連隊(クーラウの父親が属していた部隊)の兵士簿(*17)によると、リューネブルクとユルツェンに駐屯していた時期は1796年までで、それ以後はノルトハイムオステローデゲッティンゲンなどに配置されたということに依る。もしもクーラウの父親が転属させられていたなら、息子をブラウンシュヴァイクに行かせたと言うこともあながち不確かなことではない。そうすれば常に行われる転属は、より良い教育のためには支障を来さないからである。クーラウはブラウンシュヴァイクの合唱学校の給費生として受け入れられたのかも知れない。

 彼はブラウンシュヴァイクで活動的に作曲を行った。周囲の友人たちの賞讃によって元気づけられ、1802年1月にライプツィッヒのブライトコプフ&ヘルテル社に出版してもらうべくいくつかのアリアを送った。しかしながらこれは出版されなかった。1802年1月12日の手紙(*18)は若いクーラウの作曲活動をはっきりと証明するものである。
「・・・ずっと以前から私は友人たちから私の作品を出版するように頼まれていましたが、その都度批評で傷つけられることを恐れていました。しかし、もはや彼らの願いを断り切れなくなりましたので、同封したアリアを出版するという私の衷心よりの望を叶えていただけるようお願いたします・・・。」

 クーラウがブラウンシュヴァイクでどのように生活していたか、また誰に師事していたかは推測する他はない。


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恐らくカタリネン教会のオルガニスト、カール・レンメだったかも知れないが、音楽家としては全く何も知られていない。

 クーラウがカタリネウムの生徒でブラウンシュヴァイク劇場の合唱団で歌っていた、という可能性もあり得る。ハルトマン(*19)によれば、マルティーノ=カタリネウムの合唱団は少数のフランス人だけによる劇場の合唱団の補助をしていたという。また彼はちょうど同時期にブラウンシュヴァイクのカロリネウムに通っていたルイ・シュポアと同じように(*20) 劇場のオーケストラで演奏していたかも知れない(*21)

 当時のブラウンシュヴァイク劇場のレパートリーはドイツの他の都市と全く似通ったものであった。一座は殆どフランス人で占められ、劇場の運営もフランス人が行っていた。演目は殆どがイタリアかフランスの作品が一緒になっていた。特にケルビーニボワエルデューパエールなどが演奏され、モーツァルトやグルックなども忘れられてはいなかった。クーラウはここで後の創作に重要な影響を受けたにちがいない。

 恐らくその後間もなくハンブルクがクーラウの新しい故郷になったのである。その頃彼の父親はハンブルクに転属させられていたのである。

 ハンブルクではクリスチャン・フリードリヒ・ゴットリープ・シュヴェンケが彼の師となった。シュヴェンケは1767年、ヘッセンのヴァッヘンハウゼンで生まれた。1779年にはすでにハンブルクでピアニストとして登場し、1781年には教会音楽のソプラノ(ディスカント)歌手及び鍵盤楽器奏者となった。特にバッハのフーガの演奏では卓越していた。彼はフィリップ・エマヌエル・バッハとキルンベルガーの弟子だった。1787年と1788年にはライプツッヒとハレの大学に通った。Ph. E. バッハの死後、その後継者として市の教会音楽の指揮者及び音楽監督として任命され、1789年10月1日より従事した。彼は作曲の分野よりも特に理論家及び批評家としての方に重要さがある。彼の最も優れた作品は教会音楽であるが、ピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタなども書いている。その他にもオペラもある。これはハンブルク図書館に所蔵されている。


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これは彼が当時のオペラ活動を無視したわけではないことは、彼の筆跡によるパエールのオペラ『サルジーノ』があることから判る。もしかしたらクーラウは当時すでにシュヴェンケの側にいて、彼の創作に重要な意味を持つこの総譜に接していたのかも知れない。批評家としてシュヴェンケは一般音楽新聞(AMZ)に数多くの寄稿をしている。彼は1822年10月22日、没した。

 いまだバッハの流れを汲むこのような熟達した理論家、対位法作曲家のもとにクーラウは生徒としてやってきた。辛辣な批評家として恐れられていたシュヴェンケは長い間クーラウの出来映えには満足をしなかった。しかし、ある時シュヴェンケはクーラウの才能に注目することとなった。そして彼はその賞賛を出し惜しみしなかった。ある晩、クーラウも招待されていた音楽学識者の集まりでクーラウを以前の生徒として紹介し次のような期待の言葉を述べた。「彼は音楽の基本のみならず感性の点でも理解者である」(*22)

 シュヴェンケに師事する以外にもクーラウはその時代において高いレベルのハンブルクの音楽界、その劇場では全ての当時の作品が上演されていたが大いに刺激を受けることができた。

 シュヴェンケに師事していた時期に、すでにクーラウはハンブルクの音楽会にピアニスト及び作曲家として登場している。1804年3月3日(*23)、彼は自作のオペラ『アモールの勝利』の序曲を演奏している(*24)。それ以外にこの演奏会でヒンメルの大六重奏曲のピアニストとしても演奏している。他に後述する1804年3月17日のプログラムにあるようにクーラウはすでにピアノのための変奏曲を特に好んでいた(*25)

 クーラウはその若い年代に激しく器楽音楽に立ち向かった。1804年12月15日の「リッツェンフェルト氏」の演奏会では最初にクーラウの「交響曲」が演奏された。1808年のリッツェンフェルトの音楽会では再びクーラウの「交響曲」が演奏された。残念ながらこれは失われてしまった。しかし、クーラウがかつて純粋器楽音楽を手に染めたと言うことは大変興味深いことである。


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 1806年3月15日に行われた演奏会で自作のピアノ協奏曲が演奏された(*26)。これが1810年ブライトコップフ&ヘルテル社に提出され、作品7として2年後に出版されたピアノ協奏曲ハ長調かどうかは不明である。いずれにせよ作品7は大いなる成熟さを備えている。後に極めて大量に生み出したフルートのための作品はすでにハンブルクで手がけていた。1808年2月2日、セストノーブル氏とフルートとピアノのための変奏曲を演奏した。すでに18歳にしてクーラウが優秀なピアニストであったことは1804年9月15日の演奏会でデュセックのピアノ協奏曲を演奏したことでも証明できる。彼がこのピアノ協奏曲を選んだことはデュセックを深く理解していたにちがいないことを証明する。そのことは1810年10月6日にブライトコップフ&ヘルテル社宛てのデュセックの楽譜を注文した依頼書から判る(*27)

 コペンハーゲン亡命の前に行われた最後の演奏会では「ハンブルクの繁栄」と標題のあるピアノのための変奏曲で登場している。これは後の作品92の「コペンハーゲンの魅力」と題する曲と同様な作品である。

 ハンブルクにいる間にクーラウは友人と一緒にブレーメンに演奏旅行を行っている。トラーネが「伝記」でその旅行を1800年と書いているが(*28)、1802年にはクーラウはまだブラウンシュヴァイクにいたので合致しない。「北欧音楽誌1886年」にあるように1801年のことだったかも知れない。ブレーメンの劇場案内、コンサートプログラムや新聞にはなにも書かれていない。十中八九は単に個人的な旅行だったのであろう。トラーネによると手紙の中でクーラウがブレーメンに一緒に行ったと言っている友人とはハンブルクの歌手リヒテンヘルトのことであろう。彼はブレーメンで演奏会をしている。


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 1810年5月クーラウのロンドが作品1としてライプツィッヒのホフマイスター社から出版された。確かに彼はいくつかの小品を作品番号無しで出版しているが正確に指摘することが出来ない。

 同じ年に彼はブライトコップフ&ヘルテル社に1曲のソナタを送ったが「有名でない」という理由で送り返されてきた。1810年9月10日にシュヴェンケの推薦状を付けて再び送った。その結果その曲は出版されることになった。
シュヴェンケは次のようにクーラウの手紙に続けて書いた(*29)
「ハンブルクでヘルテル氏とクーラウについて個人的にお約束する光栄を得たように更なる推薦が必要にならないことを望みます。追伸:このソナタの紹介批評を一般音楽新聞に寄稿することを喜んで引き受けます。」

 この作品4によってその後彼の作品が規則的にブライトコップフ&ヘルテル社から出版されることになった。確かに1810年10月6日の手紙では彼のピアノ協奏曲作品7の出版を依頼している(*30)

 この年は彼にとってその他の点でも人生の転換期を形作ったという非常に重要な意味合いを持っている。彼の大きな作品が出版されたことによって広範囲に名前が知られることとなったのである。

 そして彼の人生と作曲家としての活動に大きな影響を及ぼした出来事が起きた。1810年、ナポレオン軍がハンブルクをフランス領としたのである。クーラウは軍隊に徴兵されるべき者だった。目を失ってはいたけれど軍楽隊に招集されるのではないかと恐れ、1810年末にデンマークに亡命した。身の安全を期してコペンハーゲンでは初めはカスパール・マイヤーと言う名前で過ごした。再び公に出られるようになると、音楽家として注目されることとなった。そして旅行による中断はあるが生涯デンマークに留まることとなった。彼はワイセと共にデンマーク音楽界の発展にその礎を築くこととなった。


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 クーラウがデンマークにやって来たときに音楽界を支配していたのはドイツ人の作曲家、フリードリヒ・ルートヴィヒ・エミリウス・クンツェンであった。当時のコペンハーゲンの音楽事情を正しく理解するにはその時期にデンマークの音楽につよく働きかけた人々を詳しく見なければならない。

 18世紀のデンマーク音楽の発展に寄与した人に三人の名前が挙げられる。当時のデンマーク音楽に足跡を残したのはハルトマンシュルツ、クンツェンで三人ともドイツ人である。

 先ず最初はヨハン・エルンスト・ハルトマン(31*)である。ハルトマンは1726年12月24日、シュレージエングロース・グロガウで生まれた。28歳でブレスラウシャフゴッチ領主司教の礼拝堂楽師となった。楽師は22名で楽長はテノールのカンニーニだった。1797年12月15日、シャフゴッチは亡命を余儀なくされ楽師たちは散り々りとなった。ハルトマンはルドルシュタットを経由して1761年、プロンにやってきた。そしてプロンのフリードリヒ・カール大公の宮廷楽長に任命された。プロンの環境は快適で大公は優れた宮廷楽団と立派な楽譜図書館を持っていた。大公が没したとき公国はデンマーク王の管轄となった。幸いにもちょうどその時期デンマークの劇場はイタリアオペラを導入していて、劇場で演奏する優先権を持っていた町の音楽家にとってこれを賄うには力不足だった。そこで劇場当局はプロンの楽師を組み込むことにし、合意が行われた。ハルトマンは1762年10月22日にプロンの楽師を引き連れコペンハーゲンにやってきた。彼は1768年に主席ヴァイオリン奏者になりコンサートマスターに任命された。当時の楽長はスカラブリーニで1781年、


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彼が辞任したときオーケストラを統制する力が不十分だったハルトマンは楽長になれなかった。半年前にコペンハーゲンにやって来たシュルツが楽長となった。しかし、ハルトマンは1787年の終わりには指揮者としての能力の欠乏があからさまとなり軽んじられるようになった。彼は作曲の分野で重要である。特にデンマークのオペラの発展にとって功績を残した。これに関して詳述するのはこの論文の範疇ではない。
 
 デンマークの劇場のためのハルトマンの最初の作品は1778年1月30日に演奏されたヨハネス・エヴァルトのテキストによる『バルダーの死』であった。これは1780年1月31日、初演が行われた第2作『漁師』と共に作者によって選ばれた北欧の主題に重要な意味がある。『漁師』の冒頭の曲は1828年クーラウの作品『妖精の丘』の最高潮に到達するものへと発展した。ハルトマンは最初は漁師に北欧民謡、例えば「小さなグンヴァー」のような歌を持って来た。かくして漁師の中に「クリスチャン王」(*32)が現れた。クーラウの『妖精の丘』では国民の歌として古典的刻印を記したこととなった。しかし、ハルトマンはこの歌をカヴァティーナとして、芸術的なメロディとして用い訓練された声に相応しく作曲したのであった。このようにハルトマンはデンマークの18世紀から中世の民謡に復古した最初の人であり、クーラウの価値の観点から重要な人物である。ハルトマンは1793年10月21日、極貧のうちに没した。

 第二番目の人物としてデンマークのジングシュピールの重要な作曲家、ヨハン・アブラハムス・ペーター・シュルツ(*33)を挙げなければならない。彼の生涯はよく知られているので、ここではもう少し立ち入って述べてみよう。シュルツは1747年3月31日、リューネブルクで生まれ1800年6月10日、シュヴェートで没した。彼はキルンベルガーの弟子で後に彼から離れ、グレトリーやグルックに傾注した。彼の主要な価値は民謡風な歌の分野にある。シュルツは1789年コペンハーゲンにやってきて王立劇場の楽長となった。彼は卓越した指揮者で


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オーケストラを芸術的高い水準に引き上げた。彼のオペラにおける価値はそれほど高くはない。彼は小規模なジングシュピールを作曲しただけであった。彼がデンマークで作曲した主要なものには『ペーターの婚礼』,『収穫祭』,『Indtoget(*訳者注)がある。これらの作品はハルトマンと同様に民謡的、民族的な感情に影響を受けている。その中には民謡風なものが顔を覗かせるがハルトマンのように意識的に統一性のとれたものではない。主にシュルツに影響を及ぼしたのはヒラーモンシニーグレートリー、グルックなどである。

*訳者注「Indtoget」とはデンマーク語で「入場、引っ越し、進入、取り立て」などを意味するIndtogに共性の定冠詞etがついたもので、この表題はシングシュピールのテキストを読まないとわかりません。
ブスク氏に問い合わせたところ次のような答えが返ってきました。「これはモロッコの大公がある田舎の漁村を訪問(Besuch=Indtog)したことを表している」のだそうです。「訪問」あるいは日本流に訳せば「行幸(ぎょうこう)」あたりでしょうか。(2月29日)

 デンマークにおける第三番目のドイツ人の作曲家はクーラウがコペンハーゲンにやってくる以前に王立劇場で従事していた音楽家であった。フリードリヒ・ルートヴィヒ・エミリウス・クンツェンは1781年9月24日にリューベックで生まれた(*34)。彼は有名な音楽家の家系の出である。すでに幼少の時から作曲にいそしんだ。しかし、父親の遺言に従って法律学を勉強するためキールの大学に入学した。彼はそこで偉大な音楽愛好家、特に定期刊行誌「音楽マガジン」の記事で有名なカール・フリードリヒ・クラマーの生徒となった。クラマーの勧めでクンツェンは大学の勉強をやめ、音楽に専心することとなった。1784年イースターの頃コペンハーゲンにやってきた。そこで彼はヴィーラントの有名な叙事詩「オベロン」を基とした彼のオペラ『ホルガー・ダンスク』によって注目を浴びることとなった。1789年、彼は劇場の声楽監督のポストを得ようとしたがツインクの方が選ばれた。クンツェンはデンマークを去り、ベルリン、パリに行きその後フランクフルト・アム・マインの宮廷楽長、更にプラーハの音楽監督となった。彼はこの間の現代的な創作によって知られ、その能力を高く買われるようになっていた。1794年、シュルツが病気になったとき後継者としてクンツェンを推薦した。彼はどの都市よりもコペンハーゲンが好きだったのでこの招聘を喜んで受けた。彼はコペンハーゲンに優れた声楽の実力をつけさせ優秀なオーケストラを出現させた。彼の先ず最初の大きな功績はコペンハーゲンにモーツァルトを導入したことである。それまでは何の考えもなく間違ったモーツァルトの演奏が行われていた。彼は先ず最初に『コシ・ファン・トゥッテ』を選んだがこれは全くの失敗に終わった。


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モーツァルトの『魔笛』さえも敢えて演奏しようとしなかった。クンツェンの作品は好意的に受け入れられた。すでに最初の滞在の時期に彼の3曲のシングシュピールが演奏されていた。彼は『ホルガー・ダンスク』によって期待されていたが、その後の作品は気に入られなかった。それらは最初の作品よりも後退したと見なされた。彼は主にディッタースドルフの、そして後にモーツァルトの影響を受けた。その管弦楽法は部分的に独自のものが見られる。コペンハーゲンの楽長時代の少なくとも19曲の劇場作品を書いている。そして義務であった戯曲付帯音楽を沢山作曲した。それらの多くはいわゆる楽長の音楽と言われるもので、澄明で流麗であるが独自のインスピレーションに欠けるものであった。モーツァルト以降の作曲家にはもはや影響を受けず、半音階的な書法のケルビーニは理解せず対立姿勢をとっていた。クーラウはクンツェンの音楽についていささか友好的でなく、その「水のように透明なメロディー」のことを3声のカノン「反ケルビーニ主義」(*35)の中で揶揄している。後にクーラウはクンツェンと直接的に対立することになるが、これはクーラウがバッゲセンの『魔法の竪琴』のテキストに作曲したときにあからさまとなった。これはクンツェンがすでに30年来、手がけてきたものであった。クーラウの『魔法の竪琴』は1817年1月30日に初演された。クンツェンはそれまでの諍いでことのほか憤り、それによって1817年1月30日に卒中発作で死んだ。

 大体においてデンマークの音楽活動は因習の中で揺れていた。劇場は外国の作品を全く閉め出している訳でもなかった。ボワエルデューの『バグダッドのカリフ』はすでに1803年に演奏されていた。これはその時以来、常に劇場の演目となった。ケルビーニの『二日間、または水汲み人』は1802年に、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』は1806年に演奏されている。

 このような音楽圏の中にクーラウは登場し、同時代の作曲家の影響を強く受け、彼がデンマークのオペラに重きを置かれる新しい法則を持ち込んだ最初の人物である。

 身を潜めていたクーラウはすでに1810年12月31日、シュレースヴィヒの宮廷の推薦状(*36)を携え王立劇場での演奏会の許可を求めた。


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1811年1月16日(*37)に許可され1811年1月23日水曜日と決まった。この演奏会でクーラウは作曲家及び演奏家として初めてデンマークの聴衆の前に登場した。

 この演奏会はブリッカによって報告された(*38)。これはその時クーラウがどんな風だったか、どのように行ったかを目の当たりに描いたものである。
「1811年1月23日、彼はコペンハーゲンの王立劇場で演奏会を催した。人々は演奏しようとしているこの外国の芸術家にについては殆ど何も知らなかった。ただ彼がその故郷からコペンハーゲンに亡命してきたということは知られていた。彼の到来はすでにヨーロッパでその名前が知られていると言うだけでは特に称賛を浴びることではなかった。幕が上がった。そしてほっそりした若者が登場した。黒の衣装を身に包んだ骨張った体格はやや無骨な感じを与えた。髪の毛は強く縮れ、片方の目が損なわれた赤味を帯びた頬の細おもての顔、時には子供っぽい不器用な身体の動きで対照をなしたが、しかしその他の点では非常に誠実な印象を与えた。彼の挙動は何かちぐはぐなものを感じさせた。そして、彼はピアノの前に座った。宮廷楽長のクンツェンが指揮棒を揚げた。ピアノ協奏曲ハ長調が始まった。すると今まで彼を取り巻いていたおかしな感じは消え、驚くべき完成度で鍵盤を駆け巡る両手、両指から弾き出される音は彼が巨匠であることを証明した。最終楽章のアレグロを弾き終わり立ち上がるとフリードリヒ・クーラウのデンマーク聴衆への最初の登場は喝采を持って迎えられた。」
 クーラウはこの演奏会で当時非常に愛好されていた標題音楽(*39)で自身の作曲した音画「海の嵐」及びハンブルクで作曲し後にワイセに献呈されたピアノ協奏曲、作品7を演奏した。その他にもモーツァルトの序曲が2曲、リギーニのアリアが演奏された(*40)。この演奏会やその後に行われた催し物によってクーラウはコペンハーゲンの聴衆から温かく受け入れられた。
 1811年2月27日、クーラウは劇場のピアノ指導者のポストを求めた(*41)。劇場総監督ハウクから相談を受けたクンツェンはクーラウの申請に助力した(*42)


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クンツェンは「歌の伴奏のピアノの教師のポストには、他の人を捜すこともあり得るがクーラウのような才能や知識を持っている人物を国内に留めることが適切である」と特に強調した。彼は毎日2時間のレッスンが年俸300リグスダーラーでは時勢からいって安すぎると考えた(*43)。劇場当局もクーラウの契約を推挙したが、王様の決定により(*44)他の人物、ピアニストのJ. C. フィッシャーがクーラウが求めた年俸で劇場のピアノ教師となった。しかしクーラウはコペンハーゲンに留まった。そして1811年11月27日に新たに演奏会を王立劇場で行った(*45)。この演奏会では自身の『オシアンのコマラ』から一つの情景を演奏したが、これは劇場作品で今日失われているものである(*46)。また、この年の12月14日にクーラウは宮廷で演奏した。1811年12月14日(*47)、彼の演奏を聴きたいので晩の7時に女王の控えの間に参内するようにという要請があった。劇場総監督ハウク(*48)は1811年12月18日、クーラウに演奏のための準備とこの素晴らしい晩に感謝して、女王様から賜った100リグスダーラーを渡した。この年クーラウはブライトコップフ&ヘルテル社に宛てた手紙の中でコペンハーゲンの有名な音楽家と知り合いになったことを話している。1811年10月8日付けの手紙で次のように述べている(*49)
「私は当地で音楽上の観点から何人かの素晴らしい人たちと知り合いになりました。例えばその素晴らしいピアノ曲で知られているワイセです。彼は私が今まで聴いた中で最も偉大なピアニストです。-----クンツェンは非常に尊敬すべき人物です。」

 クーラウはすでに1812年の初めにはコペンハーゲンの音楽家仲間から友好的に迎えられ、


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デンマークに留まることを決意した。更に彼をコペンハーゲンに固く留めさせたのは2月20日、王様の決定(*50)により「有給の空席待ち」としての立場ではあったが宮廷音楽家に任命されたことである。1813年3月3日には彼はデンマークの市民権を得た。

 間もなくクーラウはその後の彼の発展に決定的な意味合いを持つ詩人アダム・エーレンスレーヤーという、クーラウの劇場作品の才能を正しく見極めていた人物と知り合いになった。彼はクーラウのためにシングシュピール『盗賊の城』を書いた。どのような観点でこの題材をクーラウのために選んだかをエーレンスレーヤー自身が言っている言葉を引用することが最適であろう(*51)
「ワイセは当時(1814年)再びシングシュピールを作曲すること望んでいた。同じ頃、その器楽作品で知られた素晴らしいクーラウは私にそのようなものを書いてほしいと言ってきた。私はどういうものがこの二人に相応しいかよく考えてみた。クーラウは生き生きとして心をそそるものと私には思えた。ワイセの音楽は常に落ち着いた夢見心地を強く予感させるファンタジーで私を魅了させていた。私は前者に『盗賊の城』を、後者には『ルドラマスの洞窟』を書いた。」
 周知のように『盗賊の城』は田舎で出来上がり、それが効果を上げたものとなった。クーラウはこのシングシュピールを「レーウエンス城」で4ヶ月足らずで書き上げた。そこは彼の生涯を通じて付き合いのあったレーウエンスキョル家の館でその客人となっていたときだった。

 『盗賊の城』は1814年5月26日に王立劇場で演奏され絶賛を博した。このシングシュピールによってクーラウはクンツェンやワイセのようなデンマークの優れた巨匠たちと肩を並べることとなった。彼はデンマークに何か全く新らしいものを持ち込んだのである。ハンマーリヒ(*52)は『盗賊の城』について次のように述べている。
「『盗賊の城』の数年後、彼はちょうど十年後にウェーバーの『魔弾の射手』が現れたときのように、事実上独創的なロマン派の先鞭を付けたように見なされた。それほどにもクーラウは新時代の影響を受けたのである。しかしながら彼の初期の発酵はその後それを推し進める方向に発展しなかった。


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従ってクーラウを一般概念におけるロマン派の作曲家と言うことは出来ない。また彼の作品が古き時代の遺産から抜け出し全く新しいものを生み出した決定的な瞬間点にあるものという風には感じられない。」

 しかしながら彼の『盗賊の城』の音楽はそのことに抗弁できないものではない。なぜならそれは型にはまったデンマークの音楽に何かしら全く新しいものを持ち込んだからである。特に彼は和声において半音階的書法を用いた最初のデンマークの作曲家である。半音階様式はそれまでデンマークではケルビーニのオペラで知られているだけだったが当時の「正統派」からは良くないものと見なされていた。この時期にはべートーヴェンはいわゆる「我慢できる限界」の外にあった。クーラウと同世代に属していたワイセでさえべートーヴェンの弦楽四重奏曲(作品59)を「悪魔の王様の誕生日祝典曲」として判断した。ワイセは更に「今や、彼の手を縛り付けておかなければいけない」とさえも言った。半音階様式に対抗する「正統派」に反するものといえどもクーラウの『盗賊の城』の音楽における新しい着想は常時劇場の演目となるほどの成功をみることになった。『盗賊の城』はコペンハーゲンで1879年までに91回の上演回数を数えた。

『盗賊の城』は国外でも演奏された。ドイツでの最初の上演は1816年3月22日のハンブルク公演であった(*53)。最初の演奏会ではクーラウ自身がその指揮をとり絶賛を博した。2年間(1816/1817年)に『盗賊の城』は10回演奏された(*54)。カッセルでも「ロシュルプ城」(訳者注)と言うタイトルで1819年6月28日、ヘッセン大公の誕生日の祝祭日に初めて行われた(*55)
 トラーネによるとリガとライプツィッヒでも上演された(*56)

(訳者注)ロシュルプとは劇中の盗賊の首領の名前

 1814年『盗賊の城』の初演された年には、すでに両親はコペンハーゲンにやってきていた。


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その時以来彼はずっと両親を、また末の妹、クリスティーナ・マグダレーネの面倒をみることになった(*57)。恐らくクーラウの両親は政治的な関係でコペンハーゲンに来ることを余儀なくされたのであろう。
 クーラウは休むことを知らない性格だったので狭いコペンハーゲンにじっと留まっていることができなかった。そこから旅発った多くの国外旅行はそれを説明できる。それらの旅行によって彼は大いなる芸術的刺激を受けたのである。
 1815年、彼はコペンハーゲンを出て最初の長いの演奏旅行を行った。彼は1月の末又は2月の初めに(*58)、以前ドイツの演奏会で知り合ったホルン奏者のヨハン・クリストフ・シュンケ(*59)と共にストックホルムに行き、6月の初めに再びコペンハーゲンに戻った。この旅行中ストックホルムで2回の演奏会を行った。最初の4月13日の演奏会(*60)はお客の入りが少なかった。もう一つの演奏会は4月29日に行われた。最初の演奏会では彼はデンマーク・デビューですでに知られた技巧的なピアノ協奏曲ハ長調とケルビーニの『水汲み人』の歌よる変奏曲を演奏した。2度目の演奏会では彼のもう一つのピアノ協奏曲(1831年のリュンビューの火災により焼失)、「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」の変奏曲、最後にスエーデン民謡と舞曲に寄るポップリを演奏した。ストックホルムの新聞評では彼は精神的で根元を理解している芸術家と評されている。このスエーデン旅行は彼にとって一度のことではなく、訪れる度に称賛を受け、後にストックホルムの王立音楽院の会員となった。この旅行で彼はかなりの収益を上げたことが彼の兄のアンドレアスに宛てた父親の手紙から覗うことが出来る(*61)

  スエーデンの旅行から帰ってきてコペンハーゲンでじっとしていることに彼は永くは我慢できなかった。


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すでに1816年の春には彼はハンブルクに旅発っている。彼は1816年3月6日にそこのアポロホール(*62)で声楽と器楽の大がかりな演奏会を行った。主に自作の作品、ピアノ協奏曲、ピアノのための変奏曲、ピアノとクラリネットのための大ソナタ、更にカンタータ『厚情の祝祭』(*63)、それに器楽曲の『盗賊の城』の序曲を組んだが、ピアノ協奏曲の前にモーツァルトの交響曲、それにシュポアのクラリネットを伴ったアリアが続いた。1816年3月22日にはすでに述べたようにハンブルク市立劇場で彼の指揮によって『盗賊の城』が大喝采の内に初演された。次に続く3月30日、4月5日、4月10日の公演でも彼が指揮をしたと思われる(*64)。4月13日に更に「声楽と器楽と朗読」の大がかりな演奏会を行った(*65)。音楽の部分はパエールのアリア1曲を除いて全てクーラウの作品で、朗読は一つの童話、そしてシラーの「市民意識」が話された。

 1816年5月にはクーラウは再びコペンハーゲンに戻っていた。1816年6月1日に彼は年俸500リグスダーラーの劇場の声楽の指導者のポストを得た(*66)。遂に彼は1813以来常に望んでいた有給の身分を得た(*67)。1813年劇場総監督ハウクは(*68)、王様に宛てた5月2日の覚え書きでクーラウの申請を次のような文章で支援している。
「私は陛下に才能豊かな、前途有望な音楽家であるクーラウのことをご報告申し上げたいと思います。彼の経済的状況は大変厳しく、日々の糧を得るために芸術家に必要な精神力と意欲を得られないことが明らかとなっています。」しかしながらこの時は200リグスダーラーの賞与が与えられただけだった(*69)。すでにクーラウは1813年8月30日に年俸の支給の要請を提出していた(*70)。この申請はクーラウが繰り返し行った俸給の支給に対する努力をはっきりと明確に示すものである。次ページを見よ。


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「陛下が私を宮廷楽士に任命して下さったことは臣民として身に余る幸せなことであり、名誉あることです。しかし常に細目に追われ当地に滞在することを難しくさせられています。常に臣民に対して御慈悲ある福祉をお考えの陛下に、心配のない生活をもたらすわずかな年俸の支給に対する私の希望を敢えて申し上げます。現在、生活苦が私の芸術への意欲を完膚なまでに脅かしているので、このような恐れ多くも敬意を表すべき要件のうちに再度年俸支給をお願い申し上ることをお許し下さい。」
 しかしながらこの願いも受け入れられなかった。

 いまや、クーラウはクンツェンの仕事であった劇場の声楽の指導者のポストについた。しかし彼は長くこのポストを続けなかった。それは何か耐えられないほどのいやがらせがあったのか(*71)、あるいは1817年にクーラウらが音楽家として軽蔑していたシャルが楽長になったからかは判らない。クーラウはシャルのことをエーレンスレーヤーにこう言っている(*72)。「彼は8小節さえ満足に作曲できない」。彼自身はその理由を次のように挙げている。一つは出来るだけ歌のレッスンから解放され作曲に没頭する時間を得ることに努めなければならないこと、二つ目は彼の弱い胸が初心者に必要な常に歌って聴かせる激しい運動に耐えられないことだった。彼は劇場当局に500リグスダーラーの俸給はそのままで声楽の指導者のポストから解放されることを申請した。それに対して毎年1曲のオペラを劇場に提出する義務を負うとするものであった。劇場当局はそうすればシャルが劇場の楽長となっても、楽長が毎年1曲のオペラを提出する伝統的な義務を負わなくて済むことになるとしてクーラウの申し出を支持した。このクーラウの希望の許諾によって生まれる損失(歳費)は疑いもなく他の音楽家たちが同様に得たいと考えるものであった(*73)


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1817年6月26日の決議によってクーラウは声楽の指導者のポストから解放されたが、年俸を据え置くことは却下された。しかし、もしも実際にクーラウが劇場のためにオペラを作曲した場合はそれに対する報酬は支払われると通知された(*74)。これでクーラウは再び無給となった。1818年の初めに有給の宮廷楽士のユンクが死んだ際に新たに申請したが、今回はよい結果が得られた。1818年4月25日の決議によってクーラウは年俸300リグスダーラーの有給の楽師として任命された(*75)。それによってクーラウは、宮廷でピアノの演奏以外に命じられた場合、宮廷の宗教音楽、その他の機会音楽を作曲すること、もしその要請がなかった場合は劇場のためにオペラを書くという義務を負った。

 1816年、クーラウは新しい劇場作品に関与することとなった。すなわちバッゲセンのシングシュピール『魔法の竪琴』である。1817年1月の王様の誕生日に上演すべきものとしてクーラウをその作品の作曲に追い込まれた(*76)。彼はそれを余裕を持って書き上げた。そのシングシュピールは上演された。しかし不穏な庇護の基に行われた。この作品にはそれまでの長い因縁話があったのである。バッゲセンは1789年に『魔法の竪琴』の計画を立てた。彼はクンツェンに作曲を依頼し、そのシングシュピールがまだ完成されてはいなかったがクンツェンはオペラの全てを作曲した。クンツェンは彼の旅行中バッゲセンの計画に沿った仮のテキストを書かせようとした。しかし、バッゲセンとクンツェンの仲たがいのためそれは完成を見なかった。それを完成させたバッゲセンは1816年にクーラウに渡した。クンツェンが30年にわたって取り組んでいたこのテキストがクーラウの音楽を伴って王様の誕生日に演奏される事になった。そして、ここに不正にも著作権を我がものと主張する(訳者注)ペーダー・ヨートとバッゲセンとの間のもう一つの争いが持ち上がった。祝祭公演としての最初の晩の演奏は当然静穏のうちに行われたが、2度目の晩にバッゲセンに対して嵐が巻き起こった。クーラウの音楽は称賛され、演奏中彼に対しては拍手が起こったとはいえ、

(訳者注):ここの部分はグラウプナーの誤解です。ヨートは原作(以前バッゲセンがクンツェンに渡したもの---それは未完成だったのでクンツェンが友人に頼んで補完完成したもの)とバッゲセンがクーラウに渡したテキスト(1817年の上演用)があまりにも似通っていたのでそれをバッゲセンの剽窃だと見なしたのです。ヨートが原作をどのように入手したかは不明です。この黒幕がクンツェンだった可能性もあり得ます。シャーロック・ホームズの登場を願いたいものです。


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この騒動のため作品は演目から外さなければならなくなった。バッゲセンがペーダー・ヨートとの裁判で自身の著作権を証明し勝訴した(*77)一年後の上演で起きた騒擾で再び上演演目から外さなければならなかった。この不運な事態によってこの作品はクーラウに何の収入ももたらさなかった。更にクーラウは慈善演奏を行うように努力したがこのような事情のため受け入れられなかった(*78)。このことによってクーラウは経済的に追い込まれたので1200リグスダーラーの前借りをしなければならなくなった。事情が認められ1817年5月に国庫から支給された。これは『魔法の竪琴』の慈善公演が行われた場合返却するという約束であった(*79)。この金額返却は1829年3月13日に勧告されたが(*80)クーラウの死亡によって返却されず、相続者には免除されることとなった。

 この不幸な状況によって『魔法の竪琴』の序曲はクーラウのシングシュピール中ただ一つの例外として出版されずに終わった。自筆の総譜はコペンハーゲンの図書館に所蔵されている。(訳者注)

(訳者注)『魔法の竪琴』のピアノスコアはIFKSから世界初として出版されています。

 1818年からクーラウの両親はコペンハーゲンにいたことが判っているが、彼はその時から全面的にその世話をしなければならなかった。そのため彼は常に経済的に困窮していた。なぜなら1818年から得た宮廷楽士の給与は充分なものではなかったからである。彼の生み出した数多くの作品はただ報酬を得るためだけに書かれたと見なされている。彼は流行の作品、それゆえ流行の楽器であるフルートのためにそれほど沢山に作曲した----と。1819年12月3日のC. F. ペータース宛の手紙に彼がいかに報酬に関して行ったかはっきりと読み取れる。
「貴下へ
 あなたの出版社にすぐにも出版して頂きたい12曲のドイツ歌曲を同封してお送りします。


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この作品の報酬としてよろしいようにお決めください。ただし楽譜での決済でなく現金でお願いします。・・・(*81)

 1818年にクーラウは新しいシングシュピールの作曲の通達を受けた。それは宮廷作曲家としての義務を引き合いに出してこのオペラを作曲すべきとするもので宮廷作曲家任命後の初めての作品であった(*82)。このシングシュピール『エリサまたは友情と愛』は高校教師カスパール・ヨハネス・ボイエが書いたもので劇場当局の注目すべき推薦文が付されていた。それには「内容的にも形式的にも、文学及び劇場にとっては誇りとなるもの」と書かれていた(*83)。しかし、『エリサ』のテキストは全く劇場の推薦しているようなのものではなかった。オーワスコウ(*84)は『エリサ』について次のように書いている。「・・・シングシュピール『エリサ』は・・・成功を見なかった。筋はあまりにもひどいものであった。・・・」。テキストは非劇場的で、退屈で特別な筋ではない。作品の重要な役割を演ずる大勢の人物は舞台上に全く現れない。クーラウはその仕事に取りかかりすぐに仕上げた。なぜならボイエはこのシングシュピールを1819年の4月か5月に上演するよう努力していたからである(*85)。しかし、この作品は1820年(*86)になってやっと上演された。その後の上演は何度も延期された。また何人かの歌手はその役を克服できず歌うことを断った(*87)
 1819年にクーラウは新しいボイエのシングシュピール『魂の試練』の通知がきた。彼の義務ではあったがクーラウはこの作品の作曲をしなかった。恐らくテキストが『エリサ』よりももっとまずかったのだろう。クーラウはこの作曲を断った(*88)
 クーラウはそれ以前すなわち1917年のことであるが一つのオペラの作曲を始めていた。サンダーの翻訳によるコツブエの『アルフレッド』である(*89)。彼は劇場当局に1817年9月2日に手紙を送り、1818年の冬にオペラの上演が可能かどうかを打診している。


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それには四、五ヶ月でその仕事は出来上がるだろうとしている。それに対して劇場当局から確約をもらえなかったのでその作曲を断念したようだ(*90)
 1820年クーラウは再び年俸の昇給を願い出た。なぜなら大きなオペラを作曲するにはそれなりの時間がかかり、それによって副業としている個人的な仕事が全くできなくなるからである。彼は家族と共に生活をして、その芸術を捧げるオペラの作曲家の年俸は少なくとも1000リグスダーラーが必要だととしている(*91)。しかし、この請願は今までの全ての他の時と同じように斥けられた。
 1820/21年のために再び(劇場当局から)一つの作品の通知があった。そのテキストはクルセ教授のものだった。1821年1月24日に劇場当局からクーラウに、いつまでにクルセの作品の音楽が出来上がるかを訊ねてきた(*92)。これに対してクーラウは次のように答えている(*93)
「作詞家は声楽作品を書くときに音楽的に必要なことを顧慮することは稀です。それは常に考えられないような修正すべき個所を残しています。あるときは互いに厳粛な場面がいくつも続き、ある時は陽気な場面がいくつも続きます。それによって快い場面転換が損なわれるのです。ある時は同じ韻律がアリアにも二重唱にも合唱にも始終現れ再び同じような結果をもたらすのです。しばしば音楽の入る場所が不適当であったり、二重唱の場所にはアリアの場所の方が良かったり又はその逆であったりします。作曲を成功させるためには充分な配慮が必要となります。それを作詞家が喜んで受け入れたら、彼らの名誉も得られるのです。しかし、作詞家がその場にいなければ作曲家はこの難関を一人で乗り越えなければなりません。それは先に進むことが不可能となりしばしば作曲家は乗り越えられない難しさにぶつかるのです。そんな時は作曲家にとってその仕事は単に名誉と名声を放棄するだけのものとなります。」
最後に彼は付け加えてこのオペラを仕上げる時点を決定することは全く出来ないと書いている。クーラウはこのオペラを完成しなかったか、あるいは恐らくは取りかかりもしなかったのであろう。


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 1821年2月12日(*94)(*95)、クーラウは二つの請願書を提出した。その一つにハウクは次のように続けて書いている(*96)
 「毎年大きな教会音楽を提出する、あるいは毎年オペラの音楽を作曲することは大変労力のいる仕事です。充分な完成度をもたらすには一つは広範囲な仕事のため、一つはその作曲家がそれに必要とする持続的な力、そしてその際に必要な豊かな思考力を持ち合わせていない場合は殆ど期待できないものです。
 そして中庸な作品を多く求めるよりも少なくても良い作品を得ることの方が大切です。それ故これらのことから宮廷作曲家クーラウの請願を支援しなければならないと私は考えます。特に300リグスダーラーの俸給と仕事の重大さをを比較して見ても彼の要求を叶えてやることを進言いたします。そうすれば大きな宗教作品、又はオペラを提出することが2年毎となります。」
 王様はこれを承認した(*97)。クーラウはこれによって一つのオペラを書く義務が二年毎となった。
 二番目の請願としてクーラウは国外旅行の許可を申し出ている。ハウクはこれにも支援して次のように書いている (*98)
「宮廷作曲家が外国に旅行することは音楽の才能を豊かにすることやその分野の知識を広げるための強力な方策です。とりもなおさずそれは陛下に対する勤めに有益なものとなるので、彼の二年の外国旅行とその間の俸給をそのままにして休暇を得たいとする請願に許可をお与え下さいますように進言いたします。」

 1821年2月20日の決議によりこの請願は全てにおいて王様に承認された(*99)

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 クーラウは1821年3月に出発した。しかし、この旅行は計画に反して一年以上とならなかった。彼はライプツィッヒでヘルテル氏を訪問し、そこで温かく迎えられた。そしてザクセン・スイス経由して彼の本来の目的地ウィーンにやってきた。クーラウはイタリアへも行く予定にしていた。しかし、これは行われなかった。クーラウはこの旅行でべートーヴェンに会うことはできなかった。この希望は1825年の2度目のウイーンの旅行の時に満たされた。クーラウの旅行の一番重要な報告は1821年9月22日付け、コペンハーゲンのヤコブ・トリアー(*100)に宛てた手紙である。クーラウが旅行の経験や印象を如実に表したもの抜き書きしてみよう(*101)
 「・・・ウイーンは住民と同じように活気に溢れ親切な町です。人々は皆、楽しむために人生を送り、それを享受することに喜びを感じています。自然や芸術は選ぶのに迷うほど多彩な楽しみを提供しています。多くの公共の娯楽施設以外に、ここには毎晩上演されている五つの劇場があります。二つの王立劇場、すなわちブルク劇場とケルントナー・トール劇場です。これらは大変素晴らしいもので、その有名な芸術家の会員、二三の有名な劇作家、例えばツィーグラー、レンペルト、ヴァイセントルム婦人などがいます。ここの演劇はことのほか素晴らしいもので私はオペラよりも多く観に行っています。というのはここでもまたロッシーニの不潔な精神がはびこっているからです。グリュンバウム婦人(*102)はここのプリマドンナで、私が今まで聴いた中では最も偉大な歌手です。残念なことには彼女は、特にここで非常に好まれている『泥棒かささぎ』のような大音響が支配するロッシーニのオペラ以外では聴くことが出来ません。そこでは絶え間なく吹き続けるトランペットやドンドン鳴るティンパニーばかりでなく、大小の太鼓、シンバル、トライアングル等が耳を圧し、それによって人は叫び出したくなります。(こんなオペラはちょうど路上で消灯信号に出くわし、それから逃げ出したくなるようなものと同じです。)お願いだからもう一度静かな音楽を聴かせてくれ!


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私がここに滞在していた間にたった1度だけモーツァルトのオペラが上演されました。『魔笛』です。客席はまばらで、女性歌手か男性歌手の誰かがモーツァルトの高貴なメロディーをロッシーニ流のけばけばしい飾り立てで歌った時だけ拍手されました。このことからここでは、今や音楽は最上の趣味で行われていないということが分かります。その他のことでは、ここでは私なりに非常に快適に過ごしています。朝は作曲し、午後は散歩に出るか、ウイーンの名所を見てまわります。そして夕方は私にとって常に大いなる楽しみとなっている劇場に行きます。優れた芸術家以外との交際はここではしていません。意識的に避けています。なぜならかなりの旅行費用を稼ぐために私は非常に勤勉でなければならないからです。そうしないと私の仕事が邪魔されるのです。---どんなにこの旅行が楽しいものであろうとも私はコペンハーゲンや両親やそちらにいる友人たちのもとに戻りたいと思います。また私は多くの出版社と個人的に知り合いとなったので情報提供の仕事をやめ単に作曲の収入だけでやっていけるようになりますから、今後は以前よりも楽に生活できるだろうと期待しています。---私がさらにイタリアへ行くかどうかはまだ全くはっきりしていません。二、三週間の内にミュンヘンに向かい、それからドイツのそのあたりの素晴らしい町をいくつか廻り、来年の春には再びコペンハーゲンにたどり着くということになるかもしれません。宮廷楽士ヴェクスシャルはまだここにいますが来週にはパリに出発します。」
 クーラウが予定していたようにミュンヘンまで行ったかどうかははっきりしていない。しかし、この町に来たとも想像される。なぜなら1823年12月1日にここで『魔法の竪琴』の序曲が演奏されたからである(*103)。クーラウはこの時の主催者とコンタクトを持ち『魔法の竪琴』のスコアは置いていったのかも知れない(*104)


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 クーラウが出版者たちと個人的な繋がりを結ぶ希望は満たされなかったようだ。1822年、ブライトコップフ&ヘルテル社はクーラウと個人的な繋がりがあったにもかかわらず全ての営業上の関係を破棄した。クーラウは以前からしばしば彼の仕事に対して少ない報酬について訴えていたが、今や印刷ミスやブライトコップフ&ヘルテル社から刊行されている一般音楽新聞の評論に不満を述べた。すでに1815年8月12日の手紙には報酬に関して次のように言っている(*105)
「この3曲の作品に対して10ルイ金貨と数冊の進呈用本という条件を受け入れてもらえないようですので、次の郵便で私の手稿を送り返して下さることをお願いしなければなりません。」
 1822年からクーラウの作品はイトコップフ&ヘルテル社から1曲も出版されていない。1810年にクーラウの最初の作品が出版されて以来、営業上の繋がりは唐突に切れてしまった。

 クーラウはこのドイツ旅行で新しいものを聴いたり見たりした。なぜなら彼はウイーンで多くの優れた芸術家と知り合いになったことを1821年9月22日付けのトリアー宛の手紙に書いている。クーラウは常に大いなるべートーヴェン崇拝者で1821年には彼はまだべートーヴェンと面会をしなかったがウイーンで巨匠の作品を聴く機会はあったであろう。
 彼がコペンハーゲンにちょうど戻ったときにある作品---それはその後の彼の作品、特にジングシュピール『ルル』に豊かな影響を与えたものが上演された。それは1822年4月26日、コペンハーゲンで「狩人の花嫁」と題して初演されたウェーバーの『魔弾の射手』である(*106)。しかし又は、クーラウがそのドイツ旅行の際最初にベルリンに行って---それは証明されていないが----1821年6月18日の『魔弾の射手』の初演を観た可能性もあり得る。『魔弾の射手』の序曲はクーラウには


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もっと前に聴く機会があった。1820年コペンハーゲンに来たウェーバーは1820年10月8日にそこで『魔弾の射手』の序曲を初演した(*107)
あグシュピールの題材は詩人フリードリヒ・ギュンテルベアがヴィーラントの『ジンニスタン』から採り入れたものである。『ルル』の物語はモーツァルトの『魔笛』の最初のテキストだった。しかしモーツァルトは同じ題材のものがヴェンツェル・ミュラー(*108)の音楽でウィーンで演奏されたので原典を用いることをやめた。シカネーダーは書き換えなければならなくなった。そして現行の『魔笛』の形となったのである。『ルル』の題材を用いたヴェンツェル・ミュラーのオペラは『ファゴット吹き又は魔法のチター』と言う題名で殆どのドイツの都市で上演された。クーラウはブラウンシュヴァイクやハンブルクで『魔法のチター』を聴いた可能性がある。
 ギュンテルベアは『ルル』のテキストをすでに1822年8月28日に仕上げた。そして劇場当局はこのテキストを称賛し高く評価した(*109)。1823年1月16日、ギュンテルベアは印刷された『ルル』のテキストを劇場に送りこの作品に作曲の仕事をする人を捜してくれるように依頼した(*110)。この作品は最初にワイセが依頼を受けたが彼はその作曲を引き受けることを渋った。1823年1月28日クーラウは劇場総監督ハウクからこのテキストを受け取った(*111)。このジングシュピール引き受ける機会に1月31日、クーラウはまたも昇給の請願を提出した(*112)
「しかしながらここに申し上げることをお許し下さい。このような仕事に必要な時間、少なくとも半年はかかるであろうことに年俸300リグスダーラーという少ない俸給のままというのでは見るからに不適当な状態です。同じ時間をかければ私の関係している外国の出版社との契約で1200〜1500リグスダーラーを得ることが出来るのです。それだけの収入は


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国外での名声が保証してくれます。そしてここで私の家族とともに暮らすためにはどうしてもそのくらいは必要なのです」

 そしてこの手紙の終わりに300リグスダーラーの増額を願っている。彼の請願はまたもや斥けられた。しかしいずれ昇給が行われるだろうとするハウクにクーラウは望みを全て絶ったわけではないように見えた。今や、クーラウはそのテキストに作曲することを決心した。と同時に彼は、オペラを作曲する間中は生活するためのお金を稼ぐことができないという理由で600リグスダーラーの援助を申し出た(*113)。彼はさらに続けて書いている。「なぜなら、この作曲は私にとって難事業となりますから、その間の生活の糧を得るきびしさと戦わなければならなくなるでしょう。」。彼はその後の手紙でも彼に与えられた仕事を完成させるには600リグスダーラーの援助がなければ成就しないことは明白であり、その額は家族を半年間養うのに必要なものだと強調している(*114)。クーラウこの援助を受けたようだが、その証拠書類は見つかっていない。

 1823年4月10日のクーラウ手紙によると彼はその年ドイツ旅行に行っているように思える(*115)。彼は家族の用事でドイツへ行かなければならないとして2〜3ヶ月の休暇を申し出ている。恐らくこれは商人ニルス・イエプセンと結婚していた姉のアマリエの住んでいたハンブルクだったにちがいない。後にアマリエが寡婦になったときクーラウの所で家事を手伝った。彼は永らく病気だった義理の兄の葬儀のためにハンブルクを訪ねたと思われる(*116)。この旅行は許可された(*117)のだが詳しい記録は残っていない。

 クーラウは『ルル』の作曲に長い時間を費やした。それはギュンテルベアのその年のシーズン中に上演したいという強い希望(*118)


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によって1824年の夏に準備が始まった。これはクーラウにとってオペラをその時期までに完成させるため殊の外専心することとなった。

 クーラウはロマン的題材で作られたギュンテルベアのテキストの仕事をすることに喜びを感じた。ヴィーラントのお伽噺はクーラウにとっては以前から好きな読み物だった。しかしクーラウはギュンテルベアのテキストの多くで中止しなければならなかった。その度に作詞家はクーラウの考え通りに書き換えなければならなかった。そのためギュンテルベアはオペラ作詞家が経験するあらゆる辛苦を耐えなければならなかった。しかしながら彼らは約1年半の間には協調して仕事をすることとなった。クーラウはこのジングシュピールにメロディと管弦楽法における豊かな創造力を全て注ぎ込んだ。特にロマンティックな情景において、またバッカスの歌においても成功した。

 クーラウの『ルル』は1824年10月30日、王様の誕生日の祝祭日に初めて上演された。この晩の成功はこのジングシュピールの運命をまだ決定したわけではなかった。それは祝祭公演であったし、これによって引き起こされた非難は大声にはならなかった。

 翌日の晩の公演は批判的に迎えられた。なぜなら『ルル』はロッシーニ風であるという評判が広がっていたからである。それはクーラウに開演前に入場券を渡した運搬人(ダフ屋?)が言ったように口笛が吹かれるかも知れなかった。このジングシュピールが生み出した注目すべき結果は大喝采を受けただけに、数人の若者が口笛を吹いただけでその他の聴衆は皆ことごとく感激した。このジングシュピールはコペンハーゲンで大成功のうちに長い間上演が行われた。それは主役のシディを演じたズルザ嬢がコペンハーゲンから去ったときに初めて演目から外された(*119)。それは彼女の欠場によってこのジングシュピールは満足のいく演奏ができなくなったからである。このジングシュピールはパリでも上演されることになっていた(*120)。総譜はオデオン劇場から注文された。クーラウはこの上演に合わせてパリ旅行を準備していた。しかしこれは結果的に成就されなかった。1865年に『魔笛』がリリック劇場で大成功を博したときに『ルル』の上演の話が持ち上がったがこの計画も同じように取りやめとなった。ドイツでも『ルル』は上演されなかった。ただハンブルクで1825年2月5日にアウグスト・クレンゲルの演奏会で


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最初にクーラウの序曲が、そして最後に二重唱の大きな情景が手稿楽譜によって演奏された(*121)

 このジングシュピールの成功に関連してクーラウは再び昇給の請願をした(*122)。それによって300リグスダーラーの賞与を得た(*123)。彼が望んだ昇給が認められないことが決まったときに、彼は300リグスダーラーで劇場付き作曲家という特別扱いのポストを劇場当局に申し出た(*124)。王立劇場はそれによって考えを変え王様に重要な申請を提出した。それにはクーラウの手腕は劇場当局も認めていること明らかにしている。賞与は作詞家がすでに特別に受けているものであるし、劇場側から作曲家と作詞家を同時に賞与を与えることは劇場の収入では出来ないので、クーラウの申請に(賞与の)許可を与えることを劇場は推薦しない。当局はさらに続けて書いている(*125)

 「クーラウは才気煥発な才能豊かなオペラ作曲家です。その仕事は我が国ばかりでなく国外でも愛されています。そして彼の最後の作品『ルル』は殊のほか認められ希に見る好評を博しています。コペンハーゲンやその他の首都の人々の現在の趣味は特別にオペラに向いていることを考慮して、称賛すべき有名な、かつ勤勉な作曲家を失わないようにしなければなりません。オペラ作詞に関してはデンマークで作曲家以上に働き得る有能な作詞家は常に見つけることが出来、それは将来においても可能です。

 それ故、陛下に我々の考えを申し上げることをお許し下さい。宮廷作曲家のクーラウはすでに4曲の大きな声楽曲又はオペラ作品を提供しています。その作品は劇場のために少なからぬ収入をもたらしています。彼が提供したものがその仕事に相応しく行われたものであれば劇場当局の推薦で特別な報酬を与えています。そんなわけで例えば300リグスダーラーの特別手当を彼は得た訳ですが・・・」


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これを受けて王様は1825年9月27日の決定を命じた。
「宮廷作曲家クーラウが現在の年俸の昇給を見ない場合は、以後声楽作品またはオペラを提出した場合は陛下の特別なはからいによりそれに相応しい賞与を交付する」

 1825年5月20日のハウクからクーラウに宛てた手紙が示すように、クーラウはいまだに宮廷での演奏をしなければならなかった(*126)。この手紙は他の観点からも興味深いものである。そこにはクーラウとシャルの関係がいかに悪かったかが表れている。もしかしたら1817年に声楽指導者のポストをやめたのはシャルのためだったかも知れない。シャルの演奏会に行くようにという要求を承諾しなかった。この手紙はいろいろな意味で興味を引きおこす。

 「シャル教授は一昨日クーラウ氏に明日の晩7時半に宮廷で音楽会を行うようにと、その際私の望んだピアノで1曲演奏することを含めて、伝えることが出来なかったこと、そして私から要請すれば喜んで引き受けると今、私に伝えてきました」。

 さらにハウクは演奏会に来るようにと要請の手紙を送り、同時にシャルはそのような依頼を行う全権をにぎっているのだと伝えている。

 クーラウはこの年新しいジングシュピールの通知を受けた。すなわちC. J. ボイエの『フーゴとアーデルハイト』
(*127)である。彼は6月5日にこのジングシュピールを受け取った。6月15日に以前申請していたドイツへの半年間の旅行の許可が下りた(*128)。そのためこのジングシュピールはすぐさま作曲されたのではなかった。彼は旅行後になってもすぐ取り上げなかった。ここでもクーラウが又も昇給の請願をしたようで彼と劇場当局の間に軋轢が生じたのであろう。しかしそれは認められなかった。

 6月の終わりにクーラウはドイツに向けて旅発った。コペンハーゲンでの彼から出した最後の手紙は1825年6月25日の日付けが書かれている。


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6月25日付けのアブラハムス・jr に宛てた手紙にはクーラウは金曜日に旅発つと書いている(*129)。そんな所から出発は6月の末に行われたと考えられる。彼の帰国はこの年の間に行われた。コペンハーゲンにおいて劇場当局から彼に最初に送られた手紙は10月29日なので、この時すでにコペンハーゲンに戻っていた可能性は非常に高い(*130)。1825年11月28日付けでコペンハーゲンにおけるクーラウからの最初の手紙は『ウイリアム・シェイクスピア』のためのC. J. ボイエ宛てのもので(*131)、その中で彼はすでにこの仕事で忙しくしていると書いている。従ってクーラウの帰国は10月の末と結論できるだろう。
 
 この旅行でクーラウがドイツのどの町を訪れたかは知られていない。ただウイーン滞在中のことだけがべートーヴェンと面会したことよって我々には詳しく知られている。長い間憧れていた願望がこれによって叶えられたのである。1825年9月2日に行われたことがザイフリートによって以下のように記述されている(*132)

 「デンマーク王国宮廷楽長(訳者注1)クーラウはべートーヴェンと個人的知己を得ずしてウイーンを離れたくなかったのでハスリンガー氏はべートー ヴェンが避暑をしているバーデンに向けて小グループ旅行を企画した。ゼルナー氏(我が国のコンセルヴァトワールの教授)、宮廷鍵盤楽器製作者コンラッド・グ ラーフ、その他べートーヴェンの親友ホルツ氏等が尊敬すべき客人に敬意を表した一行の者たちであった。ヒュギエーア(訳者注2)に祝福された神聖なる温泉地に到着するや否や、待ち望んでいた人から力強い握手で迎えられ、しばしの休息後『早く、早く、さあ自然の中へ!』という声が響き渡った。勇ましい指揮官に駆り立てられ勇敢に従うウイーンから来た三人組(訳者注3)、あたかも鈴を付けた先頭の羊のような元気な主人、あえぎながら続くのは後続の群れ。そこでは全てのお気に入りの場所へ行かなければならなかった。と言うことは道無き道であった。ある時はカモシカのようにラウエンシュタイン城(訳者注4)やラウエンエッケの廃墟に駆け登り、岩の突角から見渡す限り緑の絨毯で敷き詰められた約束の地を眺め、

訳者注1:「宮廷楽長」はザイフリートの誤解
訳者注2:ギリシャ神話における健康の女神(祝福された神聖なる温泉地=ここではバーデンのこと)
訳者注3:städtische Kleeblatt(町のクローバーの葉?クローバーの葉は3枚が普通ですが、この一行が何人で構成されていたか不明です。もしも3人だったらその中にクーラウはいたはずです。あるいは4人?いずれにせよクローバーの葉のようにくっつき合っていた様が想像されます。)
 
これに関してドンボワ教授の教示がありました(3月23日)。彼によると「町(ウイーン)のクローバー」はウイーンから来たハスリンガー、ゼルナー、グラーフ、ホルツの4人を指し、クーラウはそれ以外の特別扱いと考えらるとのことです。ということはこの日の一行はべートーヴェンとクーラウを入れて全員で6名のグループということになります。
訳者注4:下図、訳者がウイーンの古本屋で見つけたラウエンシュタイン城の絵、1529年オスマン帝国のウイーン包囲の際にトルコ軍との戦いで廃墟になった城。1825年の時はすでに廃墟の状態だったのです。(ご参考までに)

Rauenstein im Helenenthal

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またある時はその奔放な先導者は滑りやすい砕石をよじ登ろうとする同行者の不安げな顔を眺めるため、一人をその力強い手で捕まえてトナカイの速さで殆ど垂直の傾斜を駆け下りた。様々な危険を切り抜けたあとにすばらしいヘレナ峡谷での昼食がその埋め合わせをした。疲れ切った一行はたまたまその店の唯一の客だったので一層社交の楽しみが高まった。泡だったジラリー・シャンパンがここではその義務を果たしたので、ヨハニスゼーゲン通りのべートーヴェンの住まいで今年の最上のヴォスラウアー・ワインで締め括った。その愛想の 良い主人は上機嫌で彼もその友人たちも無礼講で心ゆくまで楽しんだ。クーラウは即興でバッハの名前によるカノンを書いた。そしてべートーヴェンはこの愉快な一日の記念に後述の即興曲を献呈した。しかし、この曲は快活な諧謔性のあるものであったがべートーヴェンはその日は充分に芸術性を発揮できなかったことを感じ、翌日次の文面を添えてクーラウに届けたものである。

1825年9月3日 バーデンにて
 昨日は私もシャンパンがひどく頭にのぼり、そのため又しても私の創作力が促進されると言うよりは抑制されると言う事態になってしまったことを告白しなければなりません。いつもならそのようなことは簡単にできるというのに、昨日は何を書いたか全く覚えていないほどですから。
貴方を信服している者を時々思い出してください。 
べートーヴェン 自著

 セイヤー (*133)は会話帳の中から次のような注目すべき書き込みを記述している。シュレジンガーは会話帳にクーラウについて書いている。「クーラウは才能ある男ですね。そうじゃありませんか?----サイクロプス----目が鼻に近づいているのがあなたは気が付かれませんでしたか?」この記述から周りの人に与えたクーラウの外貌の印象が伺える。クーラウがなお数日ウイーンに留まっていたことが会話帳から判る。残念ながら(セイヤー曰く)会話帳の中でこの時のやりとりを伝えてくれるべき個所のページが破り去られてしまっているのだ。セイヤーはこの日のおふざけがあまりにも無遠慮なものだったからだろうと述べている。


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 すでに述べたようにクーラウは憧れのべートーヴェンと知り合いになるという願望を満たして1825年10月にコペンハーゲンに戻ってきた。彼の旅行後、いつものように今回も又集中する仕事があった。コペンハーゲンに到着するや否や新しい仕事に取りかかった。すなわちボイエの戯曲『ウイリアム・シェイクスピア』の付帯音楽である。この仕事の主要なものは1曲の序曲、いくつかの合唱曲、それに歌だった。この作品の中で無条件に重要なものは今日でもなお演奏されているその序曲である (*134)。それはクーラウの作品の中で最も優れた序曲である。クーラウの音楽を伴ったボイエのロマン的演劇は1826年初頭に好演奏のうちに行われた (*135)
 1826年にクーラウ一家はコペンハーゲンから近くの村、リュンビューに引っ越した。恐らく経済的な理由だったのであろう。カルカッタに住んでいた兄の息子を1822年以来養うことになり家族数が増えたのだ。住まいを変えることは彼の自然への強い愛着心に適うものであったことは確かである。この時期のクーラウについての素敵な描写がクリスチャン・ヴィンターの手紙(ボー宛の) (*136)にある。1826年8月にヴィンターは書いている (*137)

「私は毎日クーラウの家を訪ねます。我々は音楽について話し合い、タバコを吸い、熱いグロッグ酒(訳者注)を飲みます。本当に素晴らしい男です。彼はこの時期、小曲の歌曲を沢山作曲していました。a) 8曲と9曲の2冊の伴奏無しの男声合唱。その内の1冊は学生協会に献呈しています。b)ピアノ伴奏付きの歌曲集などです。彼は私のためにアルトの声部を演奏したり、ピアノで四重唱曲を弾いたり、歌曲を生の声で歌ったりしてどんな曲か判るようにしくれます。

訳者注)グロッグ=ラム酒のお湯割り


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それは私に大いに満足を与えてくれ、しかも特筆に値するものでした。もしも、恥ずかしくなければ彼に抱きついてしまったかもしれません。」ボーはさらに続けて書いている。---ヴィンターはクーラウよりも10歳若かったがいろいろな点で気が合った。なぜなら二人とも自然を愛し、長距離散歩をするのが好きだった。彼らは鳥の囀るのを聴き、民衆に歌い継がれている古い民謡を聴いた。二人はメランコリックな民謡の歌詞や旋律からロマン的、空想的、騎士的なものに強い影響を受けた。クーラウはデンマーク語が堪能でなかった(*138)がヴィンターはドイツ語が上手だった。ヴィンターは音楽に対して深い理解力があった。そしてクーラウは彼から古い民話を語ってもらうのが好きだった。ヴィンターが午後クーラウを訪れると、清潔なリンネルのシャツの上からガウンをまとい、パイプをくわえ、忠実な瑠璃色の犬を従え、まさにくつろいでいるクーラウから誠実に、親切に、心から温かく迎えられた。ヴィンターは自分のパイプを取り出し、クーラウの両親と一緒に庭の椅子に腰を下ろした。そしてコーヒー又はビール、さもなければ特上のワイン、またはヴィンターが前述の手紙に書いているようにグロッグ酒がでた。クーラウは強いお酒が好きだった。これは彼の大好物だった。
 
 クーラウの人物像はエーレンスレーヤーの「生涯の思い出」(*139)から引用することで補われるだろう。「クーラウはワイセとは全く違うタイプだった。ワイセは子供の時からデンマークに来てデンマーク人となった。ところがクーラウは常に変わらずドイツ人だった。クーラウは赤い頬をした美しい男だが幼少の時に片方の目を失う事故にあった。彼は外国や学問を放棄してワインを飲み、タバコを吸っていた。が卓越した音楽家で美しい音楽を作曲した。彼の音楽にはワイセのような香気、夢想、霊感はないが、力強く、効果的で、旋律に富み、快活な劇的な動きがあった。」


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 すでに述べたようにクーラウは1825年に作曲をするべきボイエ作、ジングシュピール『フーゴとアーデルハイト』を受け取ったが、これは当時行われた旅行のためまたもそのままにされた。1827年クーラウは再度このジングシュピールを受け取った。しかし作曲に同意しなかった。なぜならこの作曲によって彼の副収入の道を絶たなければならなかったからである。引き受ければ生活の糧を得るための苦しみで死んでしまいそうだった。そこで劇場側はクーラウがこの曲を作曲し終えたなら600リグスダーラーの賞与を与えるという確約の申請を王様に提出した(*140)。1827年3月13日この申請は受理されて、クーラウにこの作品の提出によって上記の賞与が与えられることが通達された(*141)。クーラウはこの条件で『フーゴとアーデルハイト』の作曲を行った。このジングシュピールは1827年10月29日の王様の誕生日に演奏されたが、成功はしなかった。わずか5回しか上演されなかった。テキストはまたしても使い物になるものではなかった。クーラウはこの作曲を引き受けるのは躊躇したのだが、彼には劇場のために作曲する義務があったし、いつも断ってばかりはいられなかった。特にある貴族の騎士がその恋人を卑劣な盗人として告発に身を曝させないようする場面で聴衆の反感を買った。殊の外、貴族階級の仲間ができたことで喜んだ盗人たちが牢獄に繋がれる騎士に嘲弄と歓呼を浴びせる場面で反発を受けた(*142)。クーラウの音楽も特別に優れたものとは言えなかった。それは彼の多くの器楽作品のように、様々な価値の一つのものである。 
 1828年、クーラウはノールウエイに向けて旅発った。彼は1828年4月18日、侍従武官長に宛てた請願書で旅行の許可を申請をしていた。彼はその通知を4月21日にに受け取った。
 この年にクーラウがデンマークの国民的作曲家としての名声を得ることとなったジングシュピール上演された。これによって彼の名前は今日デンマークで忘れられないものとなった。


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 これはルーズヴィー・ハイベアのテキストによる『妖精の丘』である。ハイベアはこの戯曲を卓越した手腕で仕上げた。このテキストはそもそも王様を讃えるものとして考えられたが、それ以上にロマン的雰囲気とデンマークの民衆の情緒に溢れた詩的な作品となった。この作品の作曲はクーラウに特に相応しいものだった。古い民謡は彼にとっていつも愛着心を起こさせるものであった。彼はそれを聴くために田舎に行き、そこで暮らしたのである。ハイベアは彼のテキストの中に民謡を組み合わせた。クーラウは民謡を編曲し、また自分で新しく作曲したものを加え、それが独自のメロディーかどうか判別できないくらいにうまく溶け込ませた。この序曲は部分的にウェーバーの「歓喜の序曲」と比較されるような傑作である。クーラウの序曲にはウェーバーと同様に終曲に国民賛歌が用いられている。この序曲はいつも祝祭の機会に用いられてきたし、これからも用いられるだろう。そして1874年10月15日の新王立劇場のこけら落としに『妖精の丘』が上演された(*143)。ナイエンダムはこの時のことを次のように書いている。「王様が花で飾られた貴賓席に着くと同時に、クーラウの『妖精の丘』序曲の堂々たる終曲が満場に響き渡った。」 この作品の制作過程でクーラウから台本作者のJ. L. ハイベアに宛てた何通かの手紙で興味深いことが伺える。日付けの無い付箋にクーラウが音楽の中に利用したメロディーのいくつかの曲集が書かれている。彼はここで2つの曲集を挙げている。すなわち「ヒャルマール・トゥーレン」(*144)と呼ばれるニューロップとラーベックのもの、それにコペンハーゲンの王立図書館にあるグロンランの曲集である。この手紙の先にクーラウはハイベアに歌詞を付けてもらいたいメロディの草案を書いている。そして彼は1828年9月4日の手紙で、農夫の合唱のための詩の韻律を別に書いている(*145)
 1828年10月10日のハイベア宛の最後の手紙の中に、


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「序曲との関係で劇音楽のその他のナンバーは大変重要なことである」と言っていることは興味深いことだ。かれは書いている。
 「序曲は殆ど出来上がってしまっているのに、ロマンスを削除してしまったら2度も現れるそのメロディーは序曲となんら関係が無くなってしまうのです。あなたがオーケストラでそれをお聴きになったら、すぐお判りになるでしょう。」
 1828年11月6日、『妖精の丘』は王子フレデリクと王女ウイルヘルミーネの結婚に際して大喝采の内に初演が行われた。クーラウの音楽を伴うこの戯曲はコペンハーゲンのステージで今日においても演奏されている。そして常に大いなる喝采を浴びている。その音楽はまさにデンマークの民衆の音楽的情緒を引き起こすもので、それは民衆の全ての感情を反映させたものである。100年の間にコペンハーゲンの劇場だけでも600回その上演を数える。(この戯曲は1928年11月6日の100周年祭に上演された。)屋外公演や愛好家の演奏はここでは数に入れていない。(訳者注)
 『妖精の丘』上演の数日前の1828年11月1日、クーラウにプロフェッサーの称号が贈られた。これは彼に与えられた唯一の公式の肩書きである。

(訳者注)1996年6月25日に行われたコペンハーゲン郊外の野外劇場公演(6/14〜30連日上演)はちょうど1000回目に当たりました。訳者はゴルム・ブスク氏と一緒にこの上演を観劇しました。1000回をどのように計算したのか判りませんがその数を記念して休憩中に花火が上がりました。この時の話は「第1回クーラウ詣りツアー」と題してコラムに掲載しています。お暇な方はここをクリックしてご覧ください。

 1829年5月7日、王女と皇太子フレデリクの結婚式の機会音楽の作曲の依頼がなかったのでクーラウはドイツ旅行のため3ヶ月の休暇申請を出し許可を得た(*146)。5月の内に出発して6月にはベルリンに居た。ここでもいつもの旅行のように劇場を訪れた。そこで彼はロシアの皇帝の来訪にあわせて特別に華やかに上演された実に素晴らしいスポンティーニの「ホーエンシュタウフェンのアグネーテ」を観た。ベルリンで彼は有名な歌手、アンナ・ミルダーと一緒だった。1829年6月、彼女の招待に対して彼は次の手紙を書いている(*147)
 「敬愛する夫人へ 私は二三日前にポツダムへ行くことを決めてしまったことを思い出しました。明日のことです。明日のお昼のご招待をお断りしなければならないことは大変残念です。


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朝の出発は私が思っていたよりも早かったのです。私がコペンハーゲンに戻り次第、当地の音楽仲間に祝福すべきミルダー夫人の演奏を満喫してもらえるように準備を致します。」
 クーラウの言うようにベルリンで彼はまさに怠惰な生活を送った。1825年7月にライプツィッヒからハントリーに宛てた手紙に彼はこう書いている(*148)。「4週間も滞在したベルリンでは私はとても楽しみました。----」その後にミルダー夫人に宛てた手紙の中で述べているポツダムへの旅行のことをほのめかしている。 7月には彼はライプツィッヒにいた。そこで彼は、少し前にペータース社を買い取った楽譜商人ベーメと重要な知己を得た。ベーメの別荘でクーラウのフルート四重奏が演奏された。この演奏の際に第1奏者がクーラウとフルートの繊細なテクニックの話を始めたときにフルート用にこれほど素晴らしい曲を書くクーラウがフルーティストでないと言うことを聞いて非常に驚き、全く信じようとしなかった。クーラウ自身、1813年3月4日のブライトコップフ&ヘルテル社宛の手紙(*149)にフルートの関係を次のように述べている。「私はこの楽器(フルート)をほんの少ししか吹けませんが、しかし良く理解しています。」。
 とは言ってもその後のある手紙には「・・・私はフルートの運指さえも知りません。」と書いている。恐らくこの間に覚えていたことを忘れてしまったのであろう。何故ならこの2通の手紙に書かれた言葉は16年間の開きがあったからである。最初の手紙は1813年に書かれ、後の手紙は1829年のものである。いずれにせよそれは「クーラウらが王立劇場のフルーティストである」と当時のドイツの音楽事典に引用されたことによる誤解であった(*150)。クーラウはそもそもフルート作品を沢山作曲した。何故ならフルート曲は当時の音楽愛好家層に非常に求められていたものだったからである。一方その他の作品、例えば弦楽四重奏曲はどの出版社も殆ど投資をしようとしなかった。クーラウにとっては、コペンハーゲンの劇場当局にあてた多くの書面に見られるように


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常にお金に不自由をしていたので彼の作品は重要な収入源でありフルートのための作品は出版社からお金を得る最も手早く最上のものだったのである。そのため彼のフルート作品の中にはつまらないものが沢山ある。このことからクーラウは多くの場合注文によって作曲したということが判るだろう。何故なら彼はすでにフルート曲作曲家として名声を得ていて、出版社は常に新しい作品を注文したからである。しかし、彼の器楽曲の内のこのジャンルの中には多くの大変美しい作品があり、それらは今日でも演奏されている。クーラウはライプツィッヒからハンブルクを経由してキールに行った。そこには大勢の友達がいたが、特に宮廷楽長のカール・アウグスト・クレプスと会った(*151)。そして8月の初めにコペンハーゲンに戻った。
 2029年の10月にモシェレスがコペンハーゲンにやってきた。彼はコペンハーゲンの音楽界や案内者ワイセやクーラウのことを次のように書いている(*152)
 「私は、当地で崇拝されている理論家ワイセのフラウエン教会におけるフーガの即興演奏を聴いた。それから彼と一緒に彼の家に行き彼の作品を見せてもらった。また、謎のカノン作り(*153)の老練な名人、クーラウとも知り合いになった。彼は極めて開けるのに難しい音楽的錠前を苦心して作っている。私は自分の練習のために謎のカノンを見せてくれと二人を説き伏せた。彼らはお互いに相談するため手紙のやりとりをした。私は二人に、音楽愛好家や鑑識眼のある人たちを聴衆にして外国人や国内の芸術家が音楽を演奏するW氏の夜会で会った。エーレンスレーヤーもそこにいた。クーラウは自身のト短調のカルテットで幕を開けた。それは大作様式で巧みに作られていた。しかし、しっとりしたものが欠けていた。彼は難しい個所で名人の力を発揮できなかった。次にフンケと私で自作のチェロを伴ったカプリスを演奏した。彼は大変かんばって伴奏した。次は


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アンデルセン兄弟のホルン三重奏のカプリスだった。今や私が独奏すべき順番が回ってきたがワイセに演奏してもらいたかった。他の人々も私を応援してくれたが彼は全く腰を上げようとしなかった。そこで私はピアノの前に座らなければならなかった。同時に私は城壁に囲まれたような気持ちになり、私が落ち着きを取り戻す二三分の間、死の静寂が襲った。私は名手クーラウやワイセのようにしようと考えた。和声を興味深く、物憂く、最後はヴィルトゥオーゾな嵐で曲を結ぶ---私にはすべてうまく行ったように思われた。年老いたシャル教授は私の所に駆け寄り私にキスをした(ああ、恥ずかしい---英国人だったらそう言うだろう)。クーラウとワイセが押し寄せてきた。私は息が出来なくなった。・・・」
 翌年のこと、クーラウは2つの運命的打撃を受けた。父親と母親の死である(*154)。父親は1830年1月21日、病気をしていたわけでないが突然亡くなった。母親は1830年11月13日に亡くなった。多くの手紙で死別の悲しみを書いている。1830年12月11日、ベーメ宛の手書きに彼はこう書いている(*155)。「1年の間に二人の葬式はなんとつらいことか!」。まさに彼自身も病気になっていて、その回復に何ヶ月も要した。
 この年こんなことにも関わらず作品を提出する取り決め通り、彼は劇音楽を書いた。テキストはエーレンスレーヤーの『ダマスカスの三つ子の兄弟』と題する喜劇であった。1830年4月5日のエーレンスレーヤーの手紙によるとこの音楽をクーラウに作曲してほしいと書いている(*156)。その仕事はたった4ヶ月で仕上がった。しかし、1830年9月2日の公演は不成功に終わった。この『ダマスカスの三つ子の兄弟』は3回しか上演されなかった。トラーネはこの不成功の原因を場面に相応しくないテキストの所為にしているが、クーラウの音楽にも責任があった。何故ならその音楽には二三のかわいらしい個所はあったがおしなべてやっつけ仕事だった。クーラウはいつでも思うように作曲できる老練な音楽職人である。しかし、ここではその差が歴然と現れている。この際の音楽が「達人の作品」でないのは、当時の彼の精神状態に帰することができよう。彼は契約を守るためだけに作曲したように思われる。


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 エーレンスレーヤーは彼の『生涯の思い出』(*157)の中に『ダマスカスの三つ子の兄弟』についてこう書いている。
 「クーラウが素晴らしい音楽を書いた『ダマスカスの三つ子の兄弟』は、それに相応しい評価がえられなかった不運な作品だと言いたい。これはそもそも聴衆が当然の如く一人を他の一人と思い込むようなお互いに似た3人の俳優を見つけることが難しかったことに由来している。仮面を用いようとせず又出来なかった。もっと似せるために楽な方法、付け眉毛、付け鼻、付け髭も思いつかなかった。ウインスローはバベカン役を、ヴェクシャル夫人がリラ役を見事に演じた。後に私はこれをドイツ語に翻訳した。それはティークの称賛を得た。(私は彼の前で朗読した。彼は自分のサロンでも自ら朗読した。)」

 クーラウの両親の死後、寡婦となっていた姉アマリエ・イェプセンガ家事を手伝うためやって来た。クーラウはすでに1830年の間ずっと病んでいて、1831年の災害意で危うく死ぬところだった。1831年2月5日の午後5時頃、宮廷銅版彫刻師プライスラーの館から出火し、クーラウが住んでいたガラス職人親方ハルベアの家に燃え移り15分ほどの間に全てが炎に包まれた(*158)。一人の友人が彼らを家に連れて行くまで、クーラウは姉と共に寒い道路に立ち尽くしていた。多くのものを持ち出すことが出来なかった火災は彼らにとっては不意打ちのことだった。クーラウの全ての楽譜類は燃えてしまった。その中には機会あれば出版しようとした彼自身の多くの作品があった。例えば1815年ストックホルムの演奏会で演奏されたピアノ協奏曲第2番、同様に永い年月をかけて仕上げたバッハの流れを汲む仕事、すなわち「ゲネラルバス教程」も火災の犠牲になった。

 火災の時に外に留まっていたことでクーラウは風邪をひいた。その後喘息に患い永いこと死と生の間をさまよった。ますます衰弱して足の痛風で悩まされ


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遂にコペンハーゲンのフレデリク病院に入院することとなった。そこに3月8日から6月7日まで留まらなければならなかった。 夏に彼は再びリュンビューに移った。なぜなら彼は仕事から離れて新鮮な空気を吸う必要があった。それでも彼はすでに翌年の旅行を計画立てていた。その秋にはコペンハーゲンに引っ越した(*159)。ここで彼は彼の最後の重要な作品、彼の唯一の弦楽四重奏曲、作品122ト短調(訳者注:イ短調の誤り)を完成させた。彼はもっと多くの弦楽四重奏曲を作曲するつもりであった。なぜならオーエペーターセンが作品122の出版の労を取り、彼に高額な報酬を提供し自身で出版社を見つけると約束したからである。パリのファランク社と大きな作品について交渉をしている。その中にはピアノ三重奏曲が含まれている。さらに新しいオペラの作曲も計画した。
 しかし、死がこれらの計画の成就を妨げた。1832年3月12日午後7時45分クーラウは死んだ(*160)。埋葬記録書によるとBrustsschwächeとある。遺体は死亡したニューハウン12番地の住居からフレデリック病院の礼拝堂に移され安置された。3月18日に聖ペトリ教会の礼拝堂で葬儀が行われた。儀式ではクリスチャン・ヴィンターによって歌詞が作られワイセによって作曲された歌が演奏された。ミュンスターhttp://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Peter_Mynster
が弔辞を述べ、軍楽隊はクーラウらがクリスチャン7世の葬儀の際に作曲した葬送行進曲を演奏した。葬儀に参加した人はクーラウの近しい人たちであった。彼を見送った人たちは真の友人であり知人であった。
 クーラウを偲ぶ演奏会が王立劇場で行われた。エーレンスレーヤーはこの催しに際してプロローグを書き、クーラウの『盗賊の城』が演奏された。学生は団結し喪章をつけて最前席に座った。またその他の様々な連盟でも偲ぶ会を催した。学生協会(*161)はボイエ作詞・ワイセ作曲のカンタータの演奏会をした。


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 クリスチャン・ヴィンターはクーラウの素晴らしい記念碑を彼の詩集「音楽」(*162)の最後に書いた。N. P. ニールセンは1832年4月19日の木曜日の「友愛協会」の演奏会でそれを朗読した(*163)。この詩の中でヴィンターは音楽の力を記述した後に、死者の最後の休息に伴うように詠いあげている。

Saa stod vi nylig ved en Kunstners Baare,
en dybt Inviet i den Helligdom,
hvor Tonekunstens Væld af rigen Aare
udstraales sig den vid Verden om;
o, lad os ofre ham en skønsom Taare,
han var saa dygtig, ærlig, god og from---
taknemlig mindes ham med kjælig Klage,
taknemlig elske dem, vi har tilbage,"(訳者注)

(訳者注)グラウプナーはこの部分をデンマーク語のまま引用しています。この詩は古い綴り方で現在の正字法と異なる語句があります。詩を訳すには文才が必要です。以下は文才の無い訳者の翻訳です。悪しからず・・・

我らは今、匠(たくみ)の棺(ひつぎ)の側にあり
聖域へ深淵なる奉納
音楽の力、強く支配するところ
世界の果てまで輝き渡る
おお、美しき涙を彼に捧げよ
彼はかくも有能、誠実、善良、方正
感謝を込めて衷心の悲しみのうちに彼を回顧す
感謝を込めて彼の残したものを我らは愛す

以下はデンマーク在住の林真理子さんの訳されたものです。謝意を込めてここにご紹介します。

我々は最近匠の棺の側にあった。
彼は聖域の深淵に分け入った。
彼の音楽の才能が溢れ出て、
広い世界の隅々まで照らす。
彼にふさわしい涙を捧げよう。
(喪失の) 哀しみを表し、
謝意と愛を込めて彼を回顧しよう。

 クーラウは最初は聖ペトリ教会の棺安置所に置かれ、墓石が設置された1822年3月12日になって初めてアシステンス教会墓地に埋葬された。

 クーラウの友人のハスハーゲンはこのことについてアンドレアス・クーラウに宛てた手紙に次のように書いている(*164)
 「私はあなたの亡くなった兄弟の一年後の命日に礼拝堂から教会墓地に移し埋葬する手はずを整えました。その朝、時間通りに音楽商人オルセン、宮廷楽士リューダース、卸商人ゲルソン、それに若者ラールセンが私の家に来ました。そして皆で教会墓地に行きました。そこに遺体が到着しました。その日は晴れ上がった冬の朝でした。地面は薄い雪に覆われ、明るい太陽は我々に降り注いでいました。私が選んで集まった者たちは、善良な、素晴らしい、偉大なクーラウがみんなからどんなに愛されていたかを話し合いました。それは素晴らしい日でした!」(完)


訳者後記:
 2012年2月22日から始めた翻訳がちょうど1ヶ月かかり今日終わりました。インターネット上で出来上がった個所までを毎日アップして翻訳を進めたのは初めての経験です。これも時代の流れでしょうか。有り難いことに馴染みのない人名、都市名、事柄などがインターネットで検索できたことです。訳しながら不明な個所も知ることが出来ました。読み返してみると不備なところが目につきます。恐らくこれから訂正、補筆する個所もあることと思います。脚注は未完成です。追々仕上げます。ご愛読有り難うございました。

(2012年3月21日)