今、何故にクーラウなのか
二十一世紀を目前に控え、現在世界は大きな変化の只中にあります。その変化は政治、経済、文化等の広範な領域に及び、われわれ個々人の人生観や世界観をも含めて根本的な再検討を迫られています。またこの変化は、一部の国や地域に限られたものではなく、まさに地球規模の広がりと深さを持つという性格を有する点で、人類がこれまで経験し得なかったものであると申せます。
こうした時代にあって、将来が展望できぬことからくる不安や閉塞感、それらに伴う混乱がつきまとうのは必然です。しかし、われわれがただ不安にかられて右往左往することに終始せず、正しく未来への展望を切り開こうとするためには、まず何よりも歴史をふり返り、いま一度人類が辿った道筋を見定め、その道筋を新たにとらえ直すことが必要でありましょう。
とりわけ日本は、明治維新以来西洋近代文明を宿命として受容することにより、近代化の道を歩んで来た経緯があります。このことは、西洋近代の見直しの作業が、そのまま日本人の自画像の描き変えに直結してしまうという性格を持つことを意味します。現在各分野で、そうした見直しの作業が行われておりますが、文化史の一分野としての音楽史もその例外ではありません。
一方われわれの日常生活に目を転ずれば、そこには様々な媒体を通じ、世界中のあらゆるジャンルにわたる音楽が氾濫しております。われわれは日々音楽の洪水に身を浸していると申しても過言ではありません。その中にあって、「クラシック」と呼ばれる西洋近代音楽は、その価値の点からも、歴史的観点からも、依然として大きな意味を有していると考えなければなりません。西洋近代音楽のすぐれた所産の再検討を通じてこそ、われわれは最も本質的な意味で、新しい音楽像への展望を得ることができるものと考えられるからであります。
明治以来日本が近代化の範としたのは、主にイギリス、フランス、ドイツの三国でありましたが、音楽史の分野では圧倒的にドイツ音楽が優勢であり、敢えて申せば、これに加えてフランス、イタリアの音楽が辛うじて顧慮の対象とされて来たにすぎません。ましてロシアを含む旧東欧、南欧、北欧など、その他の地域の音楽は、限られた作曲家の限られた作品にのみ関心が向けられたに止まり、音楽史上では、せいぜい周辺的なエピソードとして扱われて来たにすぎない観があります。
本当にこれで良いのか、という疑問を敢えて投げかけるところからわれわれは出発したいと考えます。従来の音楽史記述に疑義を呈するとは、具体的には個々の作曲家ないしは作品の評価変えの作業を意味します。しかしその作業が、たんに従来の音楽史記述を崩し、高い評価を与えられて来たものを貶めることにつながるものであれば、何らの積極的な意義も持ち得ないと申せましょう。
むしろわれわれの意図は、旧来の先入観や捉われから自由になることにより、これまで見落され、気づかれることのなかった価値あるものを再発見し、われわれの視野を拡大し、われわれの富を豊かにし、われわれの内なる新たな可能性に気づくことにより、真に未来への展望を開く手がかりを得ることにあります。
フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ(1786~1832)は、こうした時代の要請と、われわれの意図とに叶う人物であると考えます。
(1999年11月19日)