ハンブルクのクーラウ(石原利矩)

「ハンブルクのクーラウ」

 

 2001年1月19日、インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会・主催の第一回定期演奏会が行われます。一年に2回位のペースで定期演奏会を行う予定です。クーラウの作品を中心にしていますが、いずれその時代の他の作曲家も登場するかも知れません。第一回目はハンブルク時代に作曲されたクーラウの作品だけでプログラムが構成されています。

このコラムの文章が、コンサートを聴いていただく際の参考になればと考え掲載させていただきました。

クーラウのハンブルク時代は1802~1810年と考えられます。そこでクーラウはピアノ教師をしながら作曲家としての道を歩み始めます。しかし、その作品の中で残っているものは少ないのです。作品1のロンドが1809年頃に作曲されました。しかし、記録にはそれ以前の作品がみられます。

クーラウはユルツェンに生まれリューネブルク、アルトナ、ブラウンシュヴァイク、ハンブルクと転居しています。幼少の事柄はあまり詳しく分かっておりませんが、リューネブルク時代に生涯の運命を決定させるような事件にあいました。右目喪失です。この事故から両親は音楽家の道に歩ませようとしたとトラーネの伝記にはあります。

クーラウがハンブルクに何時やってきたかを限定するのは難しいのですが、少なくともその時期はブラウンシュヴァイクのラテン語学校「カタリネウム」の卒業試験の1802年4月8日以後から、1803年の11月以前の間と考えられます。なぜなら後者の時期(そのすこし前)に、クーラウが当時ブレーメンに住んでいた兄、アンドレアスにハンブルクから手紙を出しているからです。

ハンブルクでのクーラウの生活はどんなものだったでしょうか。

その頃、クーラウの父親は軍隊を辞め、ハンブルクに居を移していました。クーラウは両親と一緒に生活をしていたと考えられます。

当時ブレーメンで徒弟をしていた兄、アンドレアスに宛てた手紙には、若き音楽家クーラウのハンブルクにおける状態がどんなものであったかを伺い知ることができます。

[・・・お兄さんもご存じの僕の無二の親友、リヒテンホルト*と一緒に、ハンブルクにおける芸術家としての現在の状況を考えてみました。それが我々にとって、どんなに惨めなことかお兄さんには想像もできないでしょう。我々がハンブルクで認められようとしても、決して、決して!!できないことを考えるとすぐ嫌気がさしてしまいます。人はお金を得るために働きます---そんなことは自明のことです。お金持ちは僕たちをさげすみます。もし僕が今の状況を変えたいと思わないなら永久に哀れむべきピアノ教師のままで、一歩の前進もないでしょう。僕はそんな風にはなりたくありません。リヒテンホルトも同じ状況です。彼もその並々ならぬ才能や素晴らしい声やその他の天分にも関わらず、ここの劇場ではずっと押さえつけられています。さて、二人ともいわばこの愛すべき祝福されたハンブルクにおける常に変わらぬ単調さのために胃を壊してしまい、このひどい閉塞から抜け出すためハンブルクを後にしたいと考えています。あえて言うなら背を向けると言うことです。世の中がどんなに広いものか見たいと思っています。我々は二人で演奏旅行をするつもりです。先ず、最初の音楽会をブレーメンでする事を考えています。しかし、お兄さんが望んでいるよりもいたしかたがありませんが二、三週遅くなってしまい、多分11月の終わり頃になるでしょう。・・・」

*リヒテンホルトとはクーラウの友人で、ハンブルクの歌劇場の歌手です。

ブラウンシュヴァイクからハンブルクにやってきた後、どの時期からかははっきり分かりませんが、クーラウはピアノを教えることで生業をたてていたと思われます。しかしそのような境遇に満足をせず、世の中に認められようと悩み、そこから脱却しようと努力している姿が、上述の手紙からよく伺えます。

このブレーメンの演奏会の記録は見つかっていないので、私的な演奏会であったろうと考えられています。トラーネによれば、この音楽会の収益は、ブレーメンの滞在費で消えてしまい、ハンブルクには徒歩で帰ったとのことです。どの程度の評価を得たかも不明です。しかし、この時期からクーラウの名前がハンブルクの音楽会に見られるようになっていきます。1804年から1810年の7年間に10回の記録がコメディエンツェテル紙(ハンブルク)とハンブルク・ナッハリヒト紙に載っています。

先ず1804年3月3日に行われた歌手フリードリッヒ・シュレーダー主催の音楽会のプログラムを紹介してみましょう。赤字はクーラウの関係したものです。

1804年3月3日(土曜日)

ドイツ劇場

第1部

1.モーツアルト 交響曲

2.シモン・マイヤーの歌劇「ヂネヴラ」より合唱付きシーン、シュレーダー氏によって歌われる

3.フィッシャーのオーボエ協奏曲、ヴォルラーベ氏によって演奏される

4.パエールのアリア、グレイ夫人によって歌われる

5.クーラウ氏によって作曲された新作オペラ「アモールの勝利」より序曲

第2部

1.パエールのオペラ「グリセルダ」より序曲

2.ポルトガロの二重唱、グレイ夫人とシュレーダー氏によって歌われる

3.ヒンメルのピアノ六重奏、クーラウ氏によって演奏される

4.カンナビーチェの三重唱、シュレーダー夫人、キルヒナー氏、シュレーダー氏によって歌われる

この演奏会ではクーラウは2曲出演しています。以上のように、今日の演奏会よりもかなり長いプログラムで、当時の音楽会の習慣などが伺えて興味が深いですね。

以下、クーラウの関係した音楽会を抜き出して列記してみましょう。

1804年3月17日(土曜日)

ドイツ劇場

主催:ユストゥス・ゲッケ(ヴァイオリン奏者)

4.ピアノ変奏曲 作曲・演奏クーラウ氏

 

1804年12月15日(土曜日)

ドイツ劇場

.主催:リッツェンフェルト(歌手)

1.交響曲 クーラウ氏の

3.デュセックのピアノ協奏曲 クーラウ氏演奏

 

1806年3月15日

主催:フレデリカ・ブリンク*

4.ピアノ協奏曲 作曲・演奏クーラウ氏

 

1808年1月2日(土曜日)

主催:リッツェンフェルト(慈善演奏会)

1.交響曲 クーラウの

5.ピアノとフルートのための変奏曲 クーラウ氏作曲

演奏 クーラウ氏とチェステノーブレ氏*(Cestenoble)?

 

1808年3月19日

主催:M.A.ネグリス(歌手)

ピアノ変奏曲 作曲、演奏クーラウ氏

 

1808年4月23日

Ferd.ハルトマン

シュヴェンケのオーボエとクラリネットの協奏曲の賛助出演 クーラウ氏

 

1808年冬

バウムハウス

主催:クーラウ 

「愛好家のための音楽会」

プログラム不明

(この記事のイラスト、カノンの円形楽譜はそのときの入場券のデザインに用いられました。)

 

1810年3月17日

ドイツ劇場

主催:リッツェンヘルト

6.ピアノ変奏曲「ハンブルクの繁栄に寄せて」 作曲、演奏クーラウ氏

 

1810年4月11日

主催:ベティッヒャーとG.A.シュナイダー


上のプログラムにあるもので失われてしまったものにオペラ「アモールの勝利」、交響曲、ピアノとフルートのための変奏曲、「ピアノのためのポップリ」、ピアノ変奏曲「ハンブルクの繁栄に寄せて」があります。

ピアノ協奏曲はデンマークに渡ってから出版されたものですが、1806年に演奏されているところを考えると作曲はそれ以前と言うことが分かります。

 

以上の10回の演奏会の記録が残っていますが、その他にも資料の残されていない音楽会も数多くあったと推定されます。トラーネは、クーラウがブレーメンで歌手リヒテンヘルト(本当はこの呼び方が正しい)と組んでおこなった演奏会と同じような演奏旅行を他の場所でも催したであろうし、その中にベルリンへも行ったであろうことも挙げています。そこでクーラウはある伯爵夫人にある時期世話になり、後に彼は最初の作品番号の付いているOp.1~3のロンド3曲を、その伯爵夫人に献呈していることを理由に、この推量をより一層確実性の高いものとしています。

いずれにせよ、ハンブルク時代に作曲家、ピアニストとして活躍していたことが分かりますが、作曲の方面に関してもう少し詳しく述べてみましょう。ここで、作曲及びその後のクーラウのうしろだてとなった恩師シュヴェンケについて述べなければなりません。

クリスチャン・フリードリッヒ・ゴットリープ・シュヴェンケ(1767年8月30日~1822年10月22日)は12才にしてピアノ奏者としてハンブルクに登場し1871年(14才)で教会のDiskantistとチェンバリストになり、特にバッハのフーガの演奏で傑出していました。彼はエマヌエル・バッハとキルンベルガーの弟子で、1787~1788年にライプツィッヒとハレの大学に行き、エマヌエル・バッハの死後1789年10月1日(22才)から町のカントルと音楽監督に後継者として就任しました。彼は作曲家としてよりも、理論家、批評家として重要視されています。彼の作品は教会音楽が主でしたが、ピアノ協奏曲、ピアノソナタなどもあります。その他にもオペラがあり、これは現在ハンブルクの国立図書館に残っています。批評家としてはAMZ*に沢山寄稿してます。

クーラウがシュヴェンケに師事した時期は1806年頃であっただろうとブスク氏は推定しています。クーラウに対してシュヴェンケは初めは非常に手厳しく、レッスンに持っていったものにことごとくダメを出していました。すでにクーラウは、何曲かを出版していた頃のことです。この当時のことをクーラウは後に何人もの人に話しています。ブリッカの回想録にクリスチャン・ヴィンターがクーラウから聞いた話として載っているものを紹介しましょう。

「・・・シュヴェンケには一人の娘がいた。彼女はクーラウのことを毛嫌いしていた。彼女は彼のことを、気持ち悪いくらい、ひょろ長い単眼の男と考えていたのだ。ある日、クーラウは先生のところにやってきた。しかし、先生は外出中だった。そしてクーラウがシュヴェンケの部屋で彼を待っている間、シュヴェンケのパイプにタバコを詰めて、それを持ってシュヴェンケが家に帰ってきたらパイプをどこかに掛けられるようにと窓辺に腰を下ろしていた。これを見ていた娘はシュヴェンケが家に帰ってきた時、クーラウが何という恥ずべきことをしたかを彼に話した。シュヴェンケは非常に腹を立て、クーラウを「馬鹿者」とののしった。クーラウは彼の叱責を打ちのめされた気持ちで聞いた。そしてシュヴェンケが最後に「奴のやってきたものを見てやるとするか」と言った時、クーラウは震えながら持ってきた曲を差し出した。なをも怒りをぶつけながらシュヴェンケはそのノートを開け1ページ、1ページめくっていった。その間、クーラウは彼の前にかしこまっておとなしく立っていた。しかし、シュヴェンケがそのノートを全部見終えた時、彼はクーラウにこう言った。「パイプを詰めなさい、クーラウさん」。それはシュヴェンケがクーラウに”さん”付けで呼んだ最初のことであった。そしてこれは、彼の人生で最も誇り高き瞬間であったとクーラウは言っていた・・・」

クーラウがシュヴェンケについて何を学んだかを、ブスク氏は「何回かの和声学」であって、クーラウの作曲技術は殆ど独習によるものであるとしています。しかし彼の作品には、対位法的書法で書かれている箇所が多く見られ、しかもその完成度は高く、基礎的に訓練をしたものでなければ書けないような作品を残しています。またカノンに関しても、ベートーヴェンをして「偉大なるカノン作家君!」と言わしめるほど広く知れ渡っていた実績があります。このような素養はバッハの流れをくむシュヴェンケなくしてはあり得なかったことと私は推測しています。

さて、クーラウの初期の出版は1804年6月16日のハンブルク新聞の広告から伺えます。ライヘン通り47番地フォルマー社が出版した、「別れ」ピアノ曲、4シリング。とらわれ人のロマンス「暗き塔の中に居た時」によるピアノのための変奏曲、3マルク。ここでは名前がKulauと書かれています!

次に、1806年6月にアルトナのルドルフスとハンブルクのハルディエック社から2本のフルートのためのロンドとワルツ。歌曲集『花』(DF146) が 一冊にまとまって出版されました。

この時以来、しばしばクーラウの名前が殆どピアノ伴奏付き歌曲での広告で見られるようになっていきます。

1806年8月11日にはシュヴェンケに捧げられた3つの歌曲(作品.5b)があります。その他に、ピアノ曲やフルート独奏曲、あるいはフルート又はヴァイオリンがアドリビトゥムのピアノソナタ、2つのヴァイオリンと低音(3つのコントラサイラー、3つのワルツ、3つのオプサー、3つのアングレイズ)のための当時の流行の舞曲などです。1806年に以上の7曲が出版されていますが、その殆どが現在失われています。

1809年にベーメ社はクーラウの作品(歌曲)を出版し始めました。最初に述べたように1810年頃には彼の作品番号が付いた初めての作品(1~3)ロンドがライプツィッヒのホフマイスター社から出版されました。

歌の作品として「Die Orakelglokke」(神託の鐘)作品11bがこの頃ベーメ社から出版されました。村の乙女と神父との対話を1人で演ずるものです。面白い作品です。その他の歌曲に歌とピアノのための「やさしい作品」(五月の歌、夜のミンナ、我が幸せ、優しき母の子守歌、子守歌、ミンナ---愛する人との別れ)が、また「女子修道院長と修道女」があります。

作品4・ピアノソナタの出版に関してトラーネはこう書いています。同じく1810年の作品1~3が出版された二、三ヶ月後のことです。クーラウは、ブライトコップフ&ヘルテル社に一曲のピアノソナタを送りました。しかし、それには「彼は有名でない」という簡単な回答が付けられ送り返されてきました。そこでクーラウは再びシュヴェンケの推薦文を取り付けた書類を出版社に送りました。それにはこう書かれています。「私がハンブルクでヘルテル氏とクーラウ氏のことで申し合わせをさせていただいた件に関して、願わくば更なる推薦が必要となりませんように。追伸、このソナタの批評を音楽新聞*に載せることを喜んでお引き受けいたしましょう。」

音楽新聞とはブライトコップフ社が発行していた週間音楽情報誌のことです。Algemeine musikalishe Zeitung, 略してAMZと呼ばれています。

この作品4のピアノソナタは間もなくブライトコップフ&ヘルテル社から出版されました。この作品の報酬として、クーラウはお金ではなく、楽譜を手に入れています。その中にはクラマーとデュセックのピアノソナタ、ベートーヴェンのピアノと室内楽など、他にもバッハ、グルック、ヘンデル、モーツアルトなどのポートレイトなども受け取っています。初期の出版の報酬に関してブリッカの回想録にこういう記述があります。「クーラウはモールに、彼の最初の20の作品はドイツで出版され、それに対して何の収入を得たわけでなくただ有名になるために出版したのだと語った。」

モールとはクーラウのデンマーク時代の友人でヴァイオリン奏者です。

その他のピアノ曲として作品8bの連弾曲が1810年頃に作曲されています。二楽章形式のかわいい作品です。

ハンブルクはクーラウが住んでいた時期に、政治的に不安定な時代を迎えていました。1806年11月19日、ハンブルクはナポレオンの英国に対する大陸封鎖の第一歩としてモルティ元帥に占領され、失業や生活物資の欠乏、更にフランス人による市の財産の搾取などにより住民は厳しい生活を強いらました。ハンブルクは1810年12月13日に、ブレーメン、リューベック、フランス領北ドイツ海岸地方と一緒に統合されました。

1810年11月の初めにクーラウは青春時代を過ごしたハンブルクを後にしてデンマークのコペンハーゲンに向かうことになりますが、これをクーラウに関する記述の殆どは「亡命」と言っています。

ハンブルクの新聞、特に「ハンブルク・コレスポンデント」紙には、1810年10月から「徴兵の呼びかけ」と題する通知が沢山見られるようになります。それには「1785年から1789年に生まれたすべての若者は4週間以内に徴兵リストに登録すること」が要求されています。12月にはユルツェンなどの近辺の徴兵区から提出された名前の書かれた長いリストが見られます。その中にはクーラウの名前はありません。単眼の音楽家が徴兵される可能性は高くなかったかもしれませんが、軍靴の音が高まりつつあるハンブルクで音楽を続けることは、クーラウにとって難しい状況であったののかも知れません。デンマークに行ったことをクーラウは彼の手紙(1811年6月ブライトコップフ&ヘルテル社宛)に「演奏旅行」(Kunstreise)と定義していますが、カスパール・マイヤーという偽名で旅行に出ていることなどから、「徴兵を逃れるため」と一般的には云われています。

なお、ハンブルク時代以前に書かれたフルート作品で残っているものは作品10bしかないと思われていましたが、ブスク氏の調査でHamburgische Favorite Walzというフルート二重奏の曲が見つかったことが報告されました。ワルツはアンコール曲として1月の演奏会に登場するかも知れません?その他にも前述の歌曲集『花』をクーラウ自身がフルート二重奏曲に編曲したものをDan Fog氏から私が譲り受けました。ただファーストフルートのパート譜のみです。それからというものセカンドフルート譜をさがしていますが未だ見つけられていません。この曲は「わすれな草」「バラ」は歌曲として残っていますがその他の曲は不明です。補完した形でフルート二重奏曲『花』が演奏されます。

今回の演奏会のプログラムはフルート曲の作品10b以外はすべて本邦初演です。

文中、赤字下線の曲は第一回定期演奏会に登場予定の作品です。どうぞ皆様、演奏会にお越し下さい。