もう一つの『クーラウ詣り』ー 後編 ー(石原利矩)
ゴールデン・エイジ・フェスティヴァル2000年プラカード 8/26 初段4日目 続き 2000年8月26日(木)19:30 チヴォリコンサートホール 『盗賊の城』 エーレンスレーヤーの三幕のバラードオペラ C.L.Heyneの小説「アーデルハイドとアイマール」による 音楽:フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ(1786~1832) 初演:コペンハーゲンの王立劇場 1814年5月26 日 登場人物 アマーリク:司令官:Johan Reuter ベルナルド:騎士:Lars Thodberg Bertelsen アデライーデ:彼の娘:Ylva Kihlberg テレーゼ:彼女の友達:Elisabeth Halling アイマール:騎士、アデライーデの恋人:Johnny von Hal リカード:彼の臣下(騎士の下の位):Jens Krogsgaad ユリアーネ:アマーリクの妻:Djina Mai-Mai ロシュルプ:盗賊の首領:Palle Knudsen マルコム:盗賊:Palle Knudsen カミロ:盗賊:Anders Jakobsson ビルギッテ:盗賊に仕える賄い婦:Chrisitine Marstrand 合唱:羊飼い、女羊飼い、家来、盗賊:Tivoli Koncertkor オーケストラ:Tivolis Symfoniorkester 合唱指揮:Morten Schuldt-Jensen 指揮:Tam?s Vet? 以上を一字一字あまさず読んだ方はクーラウ度診断で名人の位を授けられる人だと思う。おそらく殆どの人はさっと目を通したに過ぎないだろう。そう、私も皆様の立場に立ったら同様だと思う。一人で二役を演じた人があったなどとは気が付かない。 この物語は一度読んだだけでは頭にしっかりと入ってこない。登場人物が多すぎるからだ。『ルル』のように単純明解ではない。しかし、今世紀最後の、そして次に何時上演されるか分からないオペラだ。これを伝えることはその場に居合わせた者の義務として後世に残したい。いや、IFKS主催で上演すれば別だが。しかし、その前にオペラ『ルル』をしなければならない。 話がそれたがここから少々ややこしい話にお付き合い願いたい。 以下は当日のプログラムのブスク氏の解説である。所々にあるボタンを押せば音が聞こえるようにしたつもりだ。ただし、あまり長くは聴けない。そのへんもご了承願いたい。 梗概:オペラは13世紀のトロバドールの時代の南フランスが舞台となっている。 序曲[MP3] 第1幕 騎士アイマールは嵐の森の中で道に迷う。(No.1アリア--何という恐ろしい雷だ)[MP3]。 ここで彼は温厚な盗賊カミロに会う。彼は 妻と愛人を殺害し盗賊の首領に仕えている。彼は仕方無しにアイマールを盗賊の城に導く。(No.2 二重唱:狩人よ、そんなに急いで)[MP3]。 別の城でアデライーデとテレーゼは彼女らの恋人のアイマールとナントカ騎士?(騎士に次ぐ階級)リカードとの愛情が復活した事をお互いに打ち明けている。(No.3 ルーズヴィ王は臣下と共に移動している)[MP3]。 アデライーデの父、騎士のベルナルドは彼女と司令官アマーリクとの結婚を望んでいる。(No.4 アリア--我が子よ、結婚式の日に)[MP3]。 妻が狩りの最中に死んだと信じているアマーリクがリカードと登場。(No.5五重唱、アデライーデ、テレーゼ、リカード、ベルナルド、アマーリク--彼女はなんと美しいのだ)[MP3]。 しかしアデライーデはアマーリクの求婚を断る。失意のアデライーデは(No.6 レシタティーヴォとアリア--おお、聖ゲオルグよ)[MP3]。 リカードとテレーゼは彼らと共にアイマールの城に逃亡するようにアデライーデを説得する。ベルナルドがアデライーデの拒絶にも関わらず結婚の祝宴の準備をさせている間に逃亡者は逃げ出す。それを知ったベルナルド、アマーリク、家来達は彼らを追いかける。 (フィナーレ--Hulde Hierternes Gudinde)[MP3]。 第2幕 盗賊の城には盗賊の首領の圧力にかたくなに反抗しているユリアーネが囚われている。彼女はアイマールが来た後反乱を心に決める。(No.8 アリア--強きユーディト)[MP3]。 盗賊達が狩りに出かけている間にアイマールとユリアーネは盗賊達の賄い婦、意地悪なジプシーのビルギッテと盗賊マルコム、カミロの監視下におかれる。彼らはアイマールに毒の入ったオムレツとワインを食べさせようとするが無駄に終わる。(No.9 四重唱 ビルギッテ、アイマール、マルコム、カミロ--しかしそうならなければ)[MP3]。 彼らはアイマールにお休みを言う。ユリアーネは彼が狙われていること紙に書いて警告しそれを悟られないように告げる。(No.10 五重唱--暗闇が地上と森を覆う)[MP3]。 盗賊達は森の中で休息を取り酒盛りの歌を歌う。(No.11 ロシュルプと合唱--おいで、紫の乾杯)[MP3]。 逃亡した三人のアデライーデ、テレーゼ、リカードは盗賊達に捕らわれ彼らの城に連れて行かれる。(No.12 フィナーレ--万歳、モルジョー)[MP3]。 第3幕 盗賊の城では妻殺しを後悔しているカミロは(No.13 アリア--死んでしまいたい)[MP3]。 新事態を確信しているアイマールを助ける事を約束する。(No.14.アリア--キリストよ、お守り下さい)[MP3]。 盗賊達の帰還を知らされるとアイマールの殺害に失敗したマルコムとビルギッテはユリアーネ、アイマール、カミロに殺される。(No.15 三重唱--天の高きすき先)[MP3]。 城の中庭で三人の逃亡者は盗賊達に取り押さえられる。(No.16 盗賊の歌 ロシュルプと合唱--ハイエナは彼らの洞穴を掘る)[MP3]。 ユリアーネは盗賊達に囚われている騎士を殺したとアイマールの飾り帯を示して証明する。彼女は城の地下に洞窟を発見したと盗賊達に告げ彼らをそこに誘い込み鍵をかけてしまう。悲嘆にくれたアデライーデは (No.17 アリア--彼の飾り帯を私に下さい)[MP3] はアイマールと結ばれる。(No.18 二重唱--アデライーデ、私のアイマール)[MP3]。 ベルナルドとアマーリクが登場しアイマールとアマーリクはアデライーデを得るために決闘をしようとする。ユリアーネは彼女自身が死んだと信じられていたアマーリクの妻であることを明らかにし大団円となる。 (No.19 フィナーレ--さあ、悩みは解決した)[MP3]。 以上でオペラの解説はおしまい。どの程度このオペラを皆様にお伝え出来たか心配だ。いずれかの機会にもっと詳しく、分かりやすくお話したい。 何回ものアンコールの後、客席の拍手も静まり我々は会場の外に出た。この演奏会を聴いた人たちは一様に満足げな顔をしている。休憩時間に偶然にお会いした例のリュンビュー図書館のクリストル夫人に家内と娘を紹介し挨拶をして別れる。この方がいなかったら今のブスク氏とのめぐり会いもなかったことだろう。詳しくは(ややこしいが)コラムにあるもう一つの「クーラウ詣り」をお読みいただきたい。(コラムの2番目の記事) 会場の外ではアネッテが乳母車に子供を寝かせて我々の出てくるのを待っていた。今晩は演奏会を聴きに来たお弟子さんとたちと時間をすごせる最後の機会である。ブスク氏家族とチヴォリの中のレストランに入り皆でお別れの乾杯をした。Y.KさんとA.Yさんは明日コペンハーゲンから陸路でハンブルク在住のY.Kさん(この人も私のお弟子さん)に会いに行くことになっている。ハンブルクに行ったらクーラウの作品を探すように申しつけておいた。 しかし、これがとんでもないこととなった。フォーラムをご覧になった方はご存知だと思うが帰国後彼女たちの報告によると本当にクーラウの自筆譜を見つけたという。一日早く帰った私のところに、彼女たちは成田に着くと同時に電話をくれた。現時点ではこれが本当にクーラウの歴史的発見となるかは今は何も言えない。オペラの第2幕のナンバー9のアリアの譜面だと言うことは報告されている。いずれ皆様に詳しくお知らせしたい。 さて、チヴォリは金曜日、土曜日、日曜日と午前1時まで、その他の曜日は12時に閉園となる。今日は土曜日。12時を過ぎるとごった返していた店内もだんだん静かになってきた。我々はブスク氏家族と閉園15分前まで別れを惜しんで歓談していた。愛美はジェットコースターに8回乗ったのであと2回乗ると張り切っている。大急ぎで乗るから一緒に来てと言われる。切符の自動販売機はすでに電気が切られていた。それでもあきらめようとしない愛美に手を引っ張られ発車間際のジェットコースターの最終便に乗せられた。切符を切るお兄さんに料金を払おうとしたら「いいから乗りなさい」と言われ無賃乗車を経験した。ジェットコースターに振り回されたが『盗賊の城』の感銘は振り落としてこなかった。 明日は我々家族はチューリッヒに飛ぶことになっている。しかし午後3時20分の出発である。荷造りは明日の午前中にすればよい。午前1時ちょうどにチヴォリの門を出る。そこで全員に別れを告げそれぞれの方向に散っていった。 最後のレストランで私はヤコブ(ブスク家の長男)と密約を交わしていた。それはブスク氏のインターネットに関することだった。 8/27 第二段5日目 朝、さわやかに目が覚めた。家内と愛美は今日がデンマークの最後の日。私はチューリッヒに今晩一晩だけ泊まり明日はまたコペンハーゲンに戻ってくる。 朝食が終わる頃を見計らってトーケ氏が毎朝オーケストラの練習前にホテルに顔を出してくれる。残りのコーヒーを最後にかたづけるのはトーケ氏の仕事だ。朝食はトーケ氏がいないと淋しい感じだ。今朝はA.Tさんも一緒だ。彼女の下宿は道をはさんでトーケ氏の家の真向かいにある。素晴らしい環境に住まいを決めたものだ。家内と愛美は最後の日だということでみんなで一緒に朝食をした。愛美はメッテ叔母さんに「もしトーケさんが家出したら泊めてあげて。それからパンとコーヒーを出してあげて」と言ってくれと言う。その通りに伝えるとトーケ氏も叔母さんも大笑いした。 楽しい朝食が終わった。出発の準備をしなければならない。トーケ氏は我々が乗る飛行機が午後の便だと言うことを知っている。彼はトーケ家全員とお別れの戸外の午餐会を計画してくれていた。それまでの間にわれわれはトランクの荷造りをして出発に備えた。ピアノの上には宿泊客用のノートブックが置いてある。ぱらぱらとめくってみると泊まった人たちが何か書いている。以前谷川俊太郎もここに泊まったようだ。彼も書き込んでいた。愛美も書きたいという。我々が荷造りしている間に何か書いていたようだ。メッテ叔母さんと仲良くなった愛美は客室以外の主人の領域まで進出していた。一方の扉から出ていったメッテ叔母さんがしばらくすると反対の扉から入ってくる。どういう作りになっているのか不思議だったがすでにこのホテルの作りが頭に入った愛美の説明によると客室を取り巻く形に主人の領域があるという。客室には絶対に入ってこない飼い犬エイミーとも仲良くなっていた。 私はiBookをインターネットに繋げるためこのホテルの部屋からすでに何度も試したがモデムが合わないと言う警告が出て失敗に終わっていた。ここの部屋の受話器は日本と同じ方式のジャックが付いている。メッテ叔母さんもこの部屋から繋げることを保証してくれていた。IFKSのホームページのフォーラムにデンマークから挨拶をしたいと思っていた。再度挑戦したがどうしても繋がらなかった。私はここからのアクセスをあきらめた。 いよいよこのホテルを去らなければならない時間が迫ってきた。愛美が宿泊客用のノートブックに何を書いたかメッテ叔母さんが訊ねた。全頁を使って日本語でなにやら書き込んでいた。「シャンプーは置いてあったけどリンスがなかった。朝食のなんとやらはおいしかった。」結構チェックが厳しい。でもデンマークにきたらもう一度ここに泊まりたいという彼女の本心がよく現れていた。メッテ叔母さんもそれを聞いて喜んでくれた。おみやげにアンデルセンの「醜いアヒルの子」の英語版の本を愛美にプレゼントしてくれた。二人はメールアドレスを交換し合っていた。愛美は生意気にも自分のアドレスを持っているのだ。ポストペットでやっている。私はこのソフトはどうもなじめないのだがキャリアウーマンのK.Uさんが使っていることを聞いてびっくりした覚えがある。愛美は日本に帰ったらメールを送ると約束した。でも何語で打つつもりなのだろう。 旅の善し悪しはホテルの印象によって左右される。今回のデンマーク滞在が素晴らしかったのは良いホテルに恵まれた事も大きい要素になっている。このホテルに泊まってみたい方はご連絡いただければ紹介の労はいとわない。市内から少し離れているがお勧めしたい。 ホテルに再びトーケ氏が迎えに来てくれた。当家(ちょっとしゃれてみた)の全員というのはヘレ奥様、シモン君、アンドレアス君(すでにキャンプから戻っていた)、愛犬ファニー、それにトーケ氏の前妻の子息クリストファー氏とその娘フレイアちゃんということになる。トーケ氏にはお孫さんがいるのだ。レストランはヴァルビューの公園の中にあった。恐らく私も今日しかトーケ氏には会えない。これが一緒に過ごす最後の時間となる。コペンハーゲンにもどったらブスク氏との打ち合わせに時間がつぶれてしまうからだ。 日の光の下で食事をするのはなんと気持ちの良いものだろう。最近青山通りにも道路にテーブルが出ている店が増えた。しかし、廃棄ガスと蒸し暑い通りに座っても何かゆっくりとくつろげない。北欧は太陽の光が少ない国だ。夏の暑い日が続くことは彼らにとって大きな恵みとなる。動物園に行った時、途中の公園には大勢の人が全裸に近い服装で?日光浴をしていた。どんよりした長い冬に備え肌に太陽光線をしっかりと受け止めているのだろう。こちらに来ると戸外での食事は何とも贅沢な感がする。それがホットドックであってもだ。しかし、今日はスモーブロード(オープンサンドイッチ)の逸品が並びこの上ない楽しい時間が過ぎていった。 この時トーケ氏からスモーブロードの素晴らしい詩を教わった。 at kjセrighed er ikke mad det er hvad jeg for siden ved om smソbrソd og kjセrlighed Johan Hermann Wessel(ca1780) スモーブロードは食べ物ではない 愛は食べ物ではない それがスモーブロードと愛について 私が以前からを知っていることだ。 ヨハン・ヘルマン・ヴェッセル(1780年頃) これを聞いてすぐ飲み込めなかったが私の乏しいデンマーク語の知識から判断するに、どうもスモーブロードという食べ物は食べ物の概念に入らないほど高級なものという、スモーブロード賛歌のように受け止められる。これをデンマーク語で発音しているのを聞くととても音楽的に聞こえる。スピードを早くして何回もしゃべってくれた。トーケ氏はこれは英語でもダメ、ドイツ語でもこの味は出せないと言っていた。ここでも愛国心が顔をのぞかせた。なお、日本の国旗は色が良いと言ってほめてくれた事も付け加えておこう。デザインについてはなにも言わなかった。 楽しい食事が終わり再会を誓い皆に別れを告げ空港に向かった。 第二段はプライベートなことなので詳細は避け簡単にお話ししよう。家内の妹がスイス人と結婚してチューリヒの近郊に住んでいる。愛美が最初にデンマークを訪れたのが三歳の時である。この時彼女たち夫婦はデンマークにやってきた。そして、二度目の六歳の時は私はデンマークに残り二人だけでスイスに飛んだ。しかし、今回は家族のためという名分がある。一緒に行動を共にすることが大切だ。肝に銘じていたがどうしてもブスク氏との打ち合わせの時間が取れない。そこで私だけがデンマークに戻り家内と愛美はチューリッヒで過ごすという案が家族会議で可決された。---ちょっと大げさ。 私が旅行中IFKSホームページに初めてアクセスできたのがここチューリヒに来た時である。ウインドウズのドイツ語システムだったが日本語も読み書き出来るようになっていた。出発する時2420のアクセス数を確認をしていた。留守中一体どのくらいのアクセス数が増えているだろうか。すでに5日間は経過していた。デンマークで見ることが出来なかったのでクーラウの絵のあるトップページが現れたときは何とも言えないうれしさがこみあげてきた。こうして世界中の人が見ているのだ。もう、すっかりその世界に埋没してしている自分を眺めこれでよいのかと自問自答する事がある。しかし、その時はすぐさまフォーラムに書き込むことが先決であった。打ち込みはじめたが日本語がたどたどしく表現されている。デンマークでいろいろな言葉の中で生活したせいで言語中枢がやられたようだ。その晩それが気になってまんじりとできなかった。またちょっとオーバー。 翌朝早く、昨晩書いたフォーラムの記事を削除した。この間にその文章を見た方は変な日本語と思われたと思う。大勢の人に見られなかった事を祈っている。改めて書き込んだのが現在フォーラムでまだ見られるものである。その時のアクセスカウンターが2527を示していた。100回以上の訪問があったのである。 全く本題と関係がないがこんな事も付け加えてみよう。日本で有名なポケモンが今ヨーロッパの子供達にもてはやされている。トーケ氏の二人の子供もそうであった。義妹にはシュテファンという愛美より一歳年下のいとこに当たる男の子がいる。彼もポケモンカードの蒐集に血道をあげている。日本に行きたい一番の理由はポケモンカードを買うことだという。今回は愛美は大量におみやげとして買い込んでいた。しかし、自分に会いたいから日本に行くというのなら赦してあげるが、彼をすこしいじめてやりたいという。そこで考えたのが空港に迎えに来たシュテファンに「あっ、ポケモンカード忘れちゃった」と言うことにするという。そんなことして男をおもちゃにするのはまだ早いと思ったが黙っていた。そして車にのってからそのシーンが行われた。愛美の言葉を聞いてシュテファンの反応がどう出るかは内心興味を抱いていた。そう言われたときシュテファンの答えは「いいよ」だった。泣き出すかと心配していた周りの大人はホッとした。私は助手席にいたので分からなかったが家内に言わせるとシュテファンの顔はその時引きつっていたという。話がそれたがこんな事も旅の想い出となっている。 8/28 第三段6日目 さて、私はデンマークへ、家内と愛美はチューリッヒに残るという家族離散の第三段に入ろう。あわただしいチューリッヒ滞在だったが又再びブスク氏に会えることはうれしいことだ。その他デンマークでやり残して来たことがいくつかあった。その一つはダン・フォグ氏に会うこと。ホルネマンのもう一つのクーラウの絵がローセンボルグ城にあるのでそのコピーを依頼すること。レストラン「妖精の丘」の顛末を確認すること。ブスク氏のインターネット勧誘の駄目押し。『ルル』ピアノスコアの打ち合わせ等々であった。 今日から二日間はニュウハウンの近くのアドミラルホテルを予約している。このホテルは「妖精の丘」ツアーの時に泊まったホテルである。昔の穀物倉庫を改造して建てられたもので日本人に人気がある。私の定宿でもある。ホテルは港に面しているので海側の部屋が取れるとラッキーだ。今回は海側だった。そこからノールウエイへの定期航路があり大きな船体が岸壁に横付けになると海が見えなくなる。 ホテルに夕方到着した。すぐダン・フォグ氏に電話をかけた。ダン・フォグ氏はIFKSの0003番の名誉会員である。クーラウの作品カタログを出版しているからクーラウについては該博な知識を持っている。デンマークへ訪れる度にお目にかかっている。高齢なうえ人づてに病気だと聞いているので心配だ。電話口には奥様が出られた。こちらの名前を告げるとすぐわかってくださったがダン・フォグ氏は今病気で居ないと言う返事。やはり心配したことが起きていた。会いたい旨を伝えると入院しているからそれは出来ないという。schwer krankと言ったのでかなり深刻な状況なのだろう。しかしE-Mailなら連絡がつくということだった。帰国してからこの作文に追われまだ書けていない。とても心配である。 ホルネマンのもう一つの絵はすでに開城時間を過ぎていて明日もその時間が取れない。残念だが今回はあきらめることにした。 あと、今日中に出来ることはレストラン「妖精の丘」のことである。三日前にここにやってきたとき名前が消えていたことをお知らせした。しかし、その時からどうして無くなってしまったのだろう、何時?という疑問が頭をはなれなかった。これを聞かずに帰ったらそのことで思い悩むに違いない。これを確認して心を休ませるには今日しかない。そうだ、夕食をここですればよいと考えた。『妖精の丘』はもう皆様ご存知のようにクーラウが作曲を担当したハイベアの戯曲の名前である。この名前を冠してクーラウの最後の住居の一階に「妖精の丘」というレストランがすでに10年近く営業を続けていた。我々もたびたびのツアーでここを借り切りパーティにも使っていた。この店を目印にブスク氏と落ち合ったことも何度かある。しかも、デンマーク国民にも観光客にもクーラウの名前に注目してもらう良い宣伝効果があったはずである。これが無くなってしまったのは残念なことだ。アドミラルホテルからこの店まで歩いて5分ぐらいの距離である。「GARIONEN」。入り口にはそう書かれていた。メニューには海産物が多いように思えた。ロブスターがある。サーモンがある。よし、思いでの場所の夕食である。豪勢に行こう。今日は明日に備えて寝るだけだ。豪華な料理を注文してビールを飲みながら頃合いを見計らいウェイターに先程の質問をしてみた。それによると、この店は今年2000年の1月から営業を開始したらしい。「妖精の丘」の経営者がやる気を無くしたからと言う返事だった。それを聞くためにこんなに料理を豪勢にしてしまったことを悔やんではいる訳ではない。悔やんでいるのは「GARIONEN」という意味を聞き損なったことである。イタリア語かなと思ったので---ウェイターがイタリア人のような顔をしていた---日本に帰ってから辞書を調べれば良いと簡単に考えていた。しかし、おどろいたことに我が家にある辞書を片っ端から調べたが見つからない。これだけが心残りでこれから頭を悩ます事になりそうだ。すっきりしたい。ご存知の方がいらしたらご教示願いたい。 ホテルにもどりチューリヒに電話をする。二人は楽しくやっているようだ。安心した。 ヤコブにも電話した。(後述) そして、最後の試み---ホテルからインターネットを繋げることに挑んだ。ここでだめだったらあきらめるしかない。外国から日本のプロバイダに繋げるソフトは事前にiBookにインストールして出かけてきている。これを立ち上げると各国の都市から近くのプロバイダーの電話番号が呼び出せるようになっている。勿論デンマーク市内のものが3件ある。電話線のジャックはOttiliaと同様同じ形でiBookに繋げるようになっている。指示通りにやってみた。呼び出し音のあと誰かが電話口に出るようである。しかしこちらは電話機は使えない。その内ぷつりと切れてしまう。何度もためしてみたがうまくいかない。そのつど誰かが応答しているのがiBookから聞こえる。15分位ああでもない、こうでもないと戦っていた。ドアをノックする音が聞こえた。いぶかりながらドアを開けてみると制服を着た若い美男子のホテルマンが立っていた。何度もこの部屋からフロントに電話がかかるが応答がないので心配して様子を見に来たと言うのである。今まで苦労していたのはフロントにかけるためやっていたわけではない。インターネットをするためにかけていたのであると説明した。事情を飲み込んだ美男子は手伝うからとiBookをのぞき込み日本語で書かれているのを見るとちょっと戸惑いを見せたが、ここに外線の0を打ってからとかいろいろサゼスチョンしてくれる。言われた通りにやってみるのだがどうしても繋がらない。あまり長時間引き留めても悪いと思いお帰り願った。フロントから先程の美男子から電話がかかり続行してみてくれ。こちらでそのように設定したからと言う。またも電話線をiBookにつなげ再度の挑戦。しかし結果は同じことだった。これだけ努力したらフォーラムに書き込めなかったとしても赦してもらえるだろうと電話線を元通りにした。そんな訳でこの旅行中IFKSホームページにアクセスできたのはチューリッヒからだけに終わった。外国に行ってインターネットする方は充分な対策を練って出かけられたい。 8/29 第三段7日目 今日はブスク氏と会う最後の機会だ。ブスク氏は今日はそのために一日を空けて待っていてくれる。これは出発する前からお願いしていたことだ。「何時でもいいから君の都合の良い時間に来れば良い」と言う言葉をもらっている。 『盗賊の城』終演後ヤコブと密約をした話は書いた。それはこういうことだ。初日にブスク氏の家でオフラインでインターネットを見てもらったことも興味を持ってみてくれたこともすでにお話しした。私はその後、『盗賊の城』のゲネプロのあともう一度ブスク氏の意向を聞いてみる機会に恵まれた。というのはゲネプロが予定よりも一時間早く終わったからである。ジェットコースターに乗りに行った家内と愛美と決めた場所で会うのは6時だった。この1時間の間に一緒にビールを飲みながら話して確認したことは、「自分がインターネットをしようとしないのはコンピューターを買うための費用の問題ではない。コンピューターが無くても自分の生活が不便だとは思わないから。あったとしても自分がそれを使いこなせるかどうか自信がない。」ということが分かった。 私が出かける前にiBookを買ったのは、もしブスク氏が興味を持ってくれればそれをプレゼントしようと思ったからである。しかし、状況を観察してみるとデンマークでのマッキントッシュの環境はとても不利に思えた。もし修理をしなければならなくなったらかなり面倒なことになる。ウィンドウズが圧倒的に広まっている国だからである。それならウィンドウズをプレゼントする方がいろいろな面で便利である。しかもウインドウズなら身近に指導してくれる人がいる。その身近な人というのがヤコブであった。私は『盗賊の城』終演後のレストランでヤコブを片隅に呼んで協力をお願いした。彼はトツトツとしているが誠実な人だ。私の思いはすでに彼は理解していた。その時、今日の午前中を私と一緒にコンピューターの購入に協力してもらえないかと頼んだのだ。今日は火曜日。当然仕事があることは分かっていた。午前中私と付き合うことは会社を休むことになる。話した日は26日(日曜日)の事だった。「出来るだけやってみるがもう一度電話で話したい。仕事が休めるかどうかは明日にならないと分からない」という返事をもらった。私が昨日ヤコブに電話したのはそのためである。彼は「会社を休むことに許可がもらえた」ということだった。今日会う時間と場所を確認した。ゲントフテにコンピューターのスーパーがあるからまずそこに行って、そのあとリュンビューに四五軒固まって店があるからということだった。9時半に彼の住む家の前にタクシーで行き北上してゲントフテに行き更に北上してリュンビューに行きその先少し北上すればブスク氏の家になる。良いコースを選んでくれた。こうして我々はゲントフテとリュンビューの店を廻ったのである。ブスク氏夫妻もそうであるが買い物する時はとても慎重である。商品をじっくり眺め、価格の比較をし時間をかける。この性格は受け継がれたようでヤコブは店々でちゃんとメモを取っている。全ての店を廻ってリュンビューの喫茶店でそのデータを比較検討して彼はこれと決めた。そして再びその店へ行って注文した。出来れば買ったパソコンを持ってブスク氏の家に行くことが理想であったがデンマークでは秋葉原のように現物は少ない。何日か待つのが普通らしい。我々が選んだものは9月5日(火曜日)入荷するということだった。 そして、我々はリュンビューからタクシーでブスク氏の家に到着した。13:00を廻っていた。ヤコブと私が玄関に立ったのを見てブスク氏とリーセ夫人は目を丸くした。どうして二人で一緒に来たか理由が分からなかったからである。ブスク氏は朝から待ってくれていたが私がなかなか現れない。心配してホテルに電話までしたそうである。「君の都合がよい時にいつでも」と言っていたのに心配をさせてしまったようだ。 私は今までのこれまでのいきさつを説明した。彼は戸惑っていた。高価なものを与えてくれたが自分にできるかどうかと。私はヤコプにお願いしてきた。ブスク氏の良き指導者になることを。彼は組み立てからプロバイダーのこともすべて任せてくれと言ってくれた。後はブスク氏からE-Mailが届くのを待つだけとなった。 以上がブスク氏とインターネットの報告である。 それからが二人の時間となった。テラスで『ルル』のスコアの打ち合わせをした。ずいぶん時間をかけたように思う。『盗賊の城』の批評が二つの新聞に出ていた。あと二つの新聞も記事を出すことになっているという。全部が揃ったら送ってくれることになっている。いろいろな話をした。去年の11月の「クーラウ特別演奏会」(ブスク氏やトーケ氏は「クーラウ特別コンサート」とは言わない。1997年のコンサートを第一回「プレルル」、1999年を第二回「プレルル」と言った方が分かり易いらしい)、今年の『ルル』日本公演の事、IFKSのこと、クーラウの音楽のこと、いろいろな話に及んだ。いつものように私がここに来るとじっくり腰を下ろしてしまう。まるで自分の家のように。気が付いたら夜の12時を過ぎていた。しかし、以前のように別れに悲壮感が漂わない。それは、すぐ又会えるという気持ちからだろうか。自分自身にデンマークが以前より近くなったように思えるからだろうか。 ブスク氏、リーセ夫人といつものように別れのシーンが展開され私はタクシーでブスク氏の家を後にした。路上に立った二人は手を握り合って、一人は右手で一人は左手で見えなくなるまで手を振ってくれていた。 8/30 第三段8日目 もう書くことはそんなにない。午後15:20発の成田行きに間に会うように空港へ行けばよい。そこで少し前にチューリッヒから到着する家内と愛美と会い成田行きの飛行機に乗ればよいだけである。トーケ氏には電話でさよならを言った。こうして我々は無事8/31の朝、残暑厳しい成田に到着した。 今私がこの文章を書いているのが9月5日明け方5:30である。まだデンマークは9月4日夜の10時半である。明日以降にブスク氏からE-Mailが届くことを祈って。 (終 ) |