もう一つの『クーラウ詣り』ー 前編 ー(石原利矩)

 

ニュウハウン

 例年になく今年の日本の夏は暑い。

 毎年のように夏になるとクーラウがもてはやされる。出発二三日前の電車の中で中年のおじさんとおばさんがクーラウについて盛んに議論していた。こういう場合ほとんどが冷房器具のクーラーのことで聞き逃すのだが、このおじさんはちゃんと「クーラウ」と発音していたからいやでも聞き耳を立ててしまった。しかし世の中そんな甘くはない。やはりこのおじさんとおばさんの話題は冷房機のことだった。 

「旅人」---この言葉は何故か不思議な響きが込められている。外国を訪れるたびに私は現実から遊離して一人の「旅人」になって身をゆだねる。そしてその時間の中で微妙に興奮しているのが常である。しかし、今年はそうばかり言っていられないなかった。現実が周りについてまわっていたからである。今回の旅行は家族と一緒に時間を過ごすことが大きな目的であった。家内と娘の愛美(あみ)とは私は普段あまり一緒に過ごすことができない。そのため旅行中はクーラウ研究のための時間を思い切ってカットした。娘が六歳の時デンマークに来たことがあったがそれ以来二人にとって今回は五年ぶりのデンマーク旅行である。

 もう一つの『クーラウ詣り』と名付けた今回の旅行の日程は「クーラウ度診断」のように段に分けてお話しよう。

8/23~26デンマーク(初段)

8/27チューリッヒ(第二段)

8/28~30デンマーク(第三段)

8/31成田着

初段の目的はクーラウのオペラ「盗賊の城」を聴くこと。

第二段は全くプライベートな事柄。チューリッヒの義妹家族を訪ねること。

第三段はブスク氏と共同出版の『ルル』ピアノスコア(デンマーク語、ドイツ語)の作成に関する打ち合わせであった。

 たまたまクンツェンのオペラ『ホルガー・ダンスク』が8月25日に王立劇場で行われることが重なった。これを聴くのも初段の目的となった。

その他、ブスク会長にIFKSのホームページに参画してもらえるよう彼の書斎にインターネットの導入を薦める事も大きな任務としていた。

8/23 初段初日

 11:55コペンハーゲンに向けSASの直行便は飛び立った。出発前日まではまるで戦場の如くオペラ『ルル』のピアノスコアの印刷に追われていた。3月の『ルル』公演の時に作成した日本語、ドイツ語のピアノスコアはブスク氏の手によって「紅海から昇る朝焼けの太陽」と表現されるほど赤く校正された。それはすでに6月には私の手元に届いていた。「紅海云々~」。このロマンティックな表現は私の創作ではない。デンマークの学校で出来の悪い生徒の添削に用いられる言葉である。この校正(音符と日本語の代わりにデンマーク語を入れ替える作業)とIFKSホームページで日々追われ、予想していたように出発前日は一睡もせず、家を出る直前までパソコンから印刷される紙をそろえていた。それでも時間切れとなり後ろ髪を引かれる思いで成田に向かったのである。しかし楽譜のデータは全て、今度の旅行のために買い入れたiBookに入れることは忘れなかった。

 11時間の直行便は楽である。時差ボケもそれまでの睡眠不足のためうやむやな内に消えてしまったようである。着いたその日にブスク氏宅に招待されていた。カストルップ空港には『ルル』の時の魔法の笛吹きトーケ・ルン・クリスチャンセン氏がA.Tさん(トーケ氏の元で研鑽を積むため現デンマーク在住の私のお弟子さん)と共に迎えに来てくれていた。トーケ氏に紹介してもらったホテル Ottiliaはトーケ氏の家のすぐそばの静かな住宅街にあった。アットホームなホテルで主人のメッテおばさんと愛美はすぐさま大の仲良しになってしまった。休む間もなくトーケ氏の車でヴィルムのブスク氏宅を訪れた。勿論iBookを持っていくことを忘れなかった。ブスク氏をインターネットに引きずり込むため(あまりよい表現ではないが)の強力な武器として。トーケ氏の車の到着が少々おそくなったとことを心配してブスク氏は生け垣の門のところに立っていた。遠くから腕時計を指し示すゼスチャーをしているブスク氏は相変わらず几帳面なお人である。トーケ氏は我々に夕方の景色を見せるためサービスのため遠回りしてくれたのだ。『ルル』の音楽で私たちを迎えてくれたリーセ奥様とその家族{ヤコブ(息子さん)&アネット(彼の奥さん)+ 彼らの娘〈生後4週間、名前はまだない)とトリーネ(娘さん)&フィリップ(彼女のフィアンセ)}に挨拶もそこそこにすぐさまインターネットの話題になった。iBookを広げて電話線を確認したところで第一段階は見事つまづいてしまった。ブスク氏の家の受話器についているはずのジャックが見あたらないのである。受話器は直接壁から出ている線とつながっている。その線の元をたぐってみると日本とは違うシステムのジャックであった。これではiBookとは繋がらない。そんなこともあろうと予想していた私はホームページのデータを全て用意していた。勿論出発直前のフォーラムのデータも一緒に。オフライン(プロバイダとつなげないで)で見てもらうことに作戦を切り替えIFKSのページを閲覧してもらった。視聴ページで音が聞こえることに目を丸くしたブスク氏を見て内心しめしめと思った。Op.6a-1を聴いたとき一緒に歌いながらうれしそうな表情をしているブスク氏を見てこれは落城間違い無しという印象を受けた。更に彼の興味を惹いたのは「クーラウ度診断」だった。不正解の項目を聞いて楽しそうに笑っていた。問題と答えを翻訳しながら進めてみたがすべて○。例外はPrestoとAllegroだけ。ヤッター、犬の名前では私が勝った!しかし、犬の名前でしか勝てないのはちょっと淋しい。ブスク氏は面白いからこれを英語版で見たいと言った。「クーラウ度診断」をなんと英訳したらよいのだろう。一方トーケ氏は私からさんざんE-Mailの利点を聞いているので近々アドレスを取得することになっている。この旅行記がアップロードされる頃には彼から最初のE-Mailがもらえそうである。彼もIFKSホームページに興味をもってくれたようだ。そうこうする内トーケ氏は他に用事があり、彼とはそこで翌日の再会を約し別れた。

 普段別のところに住んでいるブスク氏の家族は私がデンマークを訪れるたびに毎回このような機会を作って集まってくれる。家族全員とろうそくの灯の下の晩餐はいつもながら心温まることだった。食事の途中で愛美は眠り込んでしまった。彼女にとっては日本の明け方に夕食を食べていたことになる。ブスク氏家族と楽しい時間を過ごし、これからの日程の打ち合わせをして12時頃タクシーでホテルOttiliaにもどった。こうして初段の初日は終わった。 

8/24 初段第二日目

 朝、ホテルの前の道を散歩した。リスが道を横切り愛美は大はしゃぎ。客は我々以外に夫婦一組。一階の吹き抜けのフロアーが食堂兼居間となっている。アップライトピアノがいつでも弾けるように置いてある。二階には3~4室の客室があり、清潔、静寂、主人の優しい笑顔はすばらしい環境であった。午前中はチヴォリ公園で過ごすため開園と同時に入園したが幼児のためのものばかりしか動いていない。最初の時に乗った乗り物は今や愛美の興味を惹かないものばかり。王立図書館に行きたいなどとは言いたくても言えない。この旅行の主役は愛美と家内なのだ。ぶらぶらしてホテルに戻る。

 トーケ氏が約束通り15:00に迎えに来た。あのトー・ミヌーター(注)のトーケ氏は今回はその実力を見せなかった。

注:「to minuter」デンマーク語で「2分」の意味、2分と言っても決して物理的な2分を意味しない。ちょっとの時間を表すのだがトーケ氏の場合はそれが30分、1時間以上のこともある。

 彼はオーケストラの仕事を終え今日は我々のために時間を作ってくれた。これからスエーデンまで小旅行をしようというのだ。つい数ヶ月前に完成したスエーデンとデンマークを結ぶ橋を渡って。そうすれば愛美が学校に戻ってスエーデンまでも行ってきたと皆に自慢できるからとトーケ氏は言う。A.Tさんも同乗した。私はこの橋が出来ることは聞いていたがまさかこんなに早くこの橋を渡ることが現実になるとは思っていなかった。この橋の中頃で愛美は睡魔に襲われた。天気が悪かったのはこの旅行中この日だけでスエーデンのマルメに入った頃は大雨。北上してゲーテボルグからフェリーでデンマークに戻った。海上から見るクロンボー城は素晴らしい眺めだった。この辺りで愛美は目を覚まし結局スエーデンに行ったという自覚がないまま帰国した。学校で自慢は出来ないだろう。雨の中、女流作家カーン・ブリクセンの博物館の庭を散策してこの小旅行は終わった。その日はトーケ氏宅でヘレ奥様とシモン君とA.Tさんと晩餐会となり楽しい時間が過ぎていった。(次男のアンドレアス君は合宿中で不在)。ローデシア・ナントカという種類のトーケ氏の愛犬ファニーと仲良くなった愛美はホテルに帰るとき別れづらそうにしていた。犬を飼うことは愛美の永年の夢である。しかし、両親がなかなかうんと言わない。実は私もその経験がある。私が少年時代、父親にせがんだが結局犬を飼ってもらえなかった。母親から聞いたのだが両親が結婚した当時犬を飼っていて、父親はその犬を大変可愛がったという。その犬が死んでから父親は再び犬を飼おうとは言わなくなったそうだ。きっと愛美もそんな状況にいるのだと思う。

8/25 初段第三日目

 朝からすばらしい日の光が燦々と降り注いでいる。

 今日はクーラウのお墓参りだ。クーラウのお墓へ行くのは私は4度目である。最初は第一回目のクーラウ詣りの1987年のことであった。その時は家内と二人だけだった。100年以上も前のトラーネの伝記に書いてあったお墓の名前をメモしてデンマークに来て実際にクーラウのお墓にたどり着いた日のことが甦った。今、その後に生まれた娘と一緒である。彼女にとっては初めてのクーラウの墓参。タクシーで降ろされた入り口はいつも来る入り口とは全然違っていた。方向が全然分からない。驚いたことに家内はまっすぐそのお墓に進んでいた。そしてピタリとクーラウの墓石の前で足を止めた。不思議な感を持った女性だ。うう~ん、女は恐ろしい。

 14:00から18:00までチヴォリのコンサートホールで『盗賊の城』のゲネプロが行われる。ブスク氏がそれを聴けるように取りはからってくれていた。そしてラジオ放送のインタビューがあるからそのつもりでと言われている。

 クーラウの墓前で我々は手を合わせた。墓地から出ようと歩き出すとたまたま墓地の中にあるアシステンス教会の中でなにやら展覧会が催されいるのが目に入った。覗いてみると客は一人も居なかった。入り口の案内人に何が行われているのか尋ねてみた。それはこの墓地に埋葬されている人物に関する展覧会でその中にクーラウの名前も挙げられていた。シャルの奥さんがバレーを踊っている切り抜きの絵が作りつけのステージの中央に飾られていた。ギタリストがお客の居ない空間で一人で演奏していた。壁に沿って埋葬されている有名な人々が描かれていた。H.C.アンデルセンは勿論のことクーラウも居た。ビデオに収めチヴォリに向かった。

 やっと時差から立ち直った愛美はチヴォリで実力を発揮できることにうれしそうな顔をしている。今回はジェットコースターに10回乗ると張り切っている。ゲネプロを聴くためにブスク氏とチヴォリの入り口で待ち合わせていた。14:00きっかりにブスク氏が現れた。なんとまあ几帳面な人であろう。人はそう思わないかも知れないがまるで私みたいだと自分で自分のことを思う。勿論ブスク氏の方が私よりずっと誠実だ。いつも訪れる玄関からでなく楽屋口から入ることは楽しいことである。楽隊時代の習性がまだ抜け切れていないようだ。すでに序曲が始まっていた。放送局の人、歌手関係の人が10人ほどすでに着席していた。愛美と家内も前半だけきかせてもらいあとはジェットコースターへと出ていった。

 練習の休憩時間にインタビューが行われた。私は簡単に考えていた。しかしこのインタビューは私が主役であった。『ルル』の東京公演のこと、IFKSのこと、クーラウの音楽のことなど、たどたどしいドイツ語でしゃべったが熱はこもっていたと思う。あろうことかインタビュアーがクーラウの『盗賊の城』を聴いてデンマークの黄金時代の音楽と感じるかどうかをデンマーク語でしゃべってくれと言う。ドイツ語以上にたどたどしく「『盗賊の城』からそれを言うのはたいへんむずかしい。もしこれを初めて聴いたら中央ヨーロッパのものかデンマークで作曲されたものかを判断するのは私には出来ない」と答えた。---と答えた思う。その他「一面だけ見て物事を判断することはいけないことだ。全てのクーラウの音楽を知らないでクーラウを判断してはいけない。そのためにIFKSは生まれ、それが私のライフワークでもある。」と答えた。----答えたと思う。オペラを聴いて歌手のデンマーク語が理解できるかとも聞かれたが、普通の会話だってよく聞き取れない。歌になったらなおさらだ。20分位のインタビューだったがこの間ブスク氏は一言二言しゃべっただけである。終わったあとブスク氏は私の肩をたたき良くしゃべったとほめてくれた。あるいは慰めてくれたのか。このインタビューはデンマークで有名な「ボレロ」という番組にオンエヤーされた。放送は滞在中であったが自分では聞けなかった。しかしこの放送のテープはこの旅行の第三段8/29の最終日にブスク氏の家に放送局から送られてきていた。私はそれをブスク氏の家で冷や汗を流しながら聴いた。その放送は私のインタビューの前日に行われていたブスク氏だけのインタビューとうまくミックスして構成されていた。放送局の人に渡したIFKS制作の『ルル』のCDから著作権にひっかからない程度の長さの音楽も入っていた。東京の演奏会が瞬時だがデンマークで響いたことになる。そしてこのテープをおみやげにもらうことが出来た。

 その日のゲネプロは17:00に終わってしまった。

 ブスク氏はすでに他の日に『ホルガー・ダンスク』を見ているので翌日の『盗賊の城』の開演前に再びチヴォリで合う約束をしてそこで別れた。明日もインタビューがあるから18:00にと言われた。

『ホルガー・ダンスク』の上演は20:00である。今日は遅れてデンマークに到着するY.Kさん A.YさんF.Kさん(いずれも私のお弟子さん)と王立劇場で会える機会でもある。彼女たちも『盗賊の城』を聴くために日本からやってきた人たちである。たまたま日にちを前後してクンツェンのオペラも聴けると言うことでブスク氏に入場券を手配してもらったのである。空港からホテルへ、ホテルから王立劇場へと急がないと上演に間に合わないスケジュールとなっている。それぞれの泊まるホテルのフロントに私は事前にブスク氏から渡された入場券を置いてきている。Y.Kさん A.Yさんのホテルのフロントでは予約簿を見てミスターとその人達の事を呼んでいる。前回の旅行で日本から送った演奏会のための楽譜が演奏会直前に届いたという不手際のあった同じホテルだったから不安は大きかった。

 上演までの時間に2時間くらいの猶予があった。我々家族はニュウハウンにあるクーラウゆかりの家にあるレストラン「妖精の丘」に向かった。以前フルートオーケストラで大道芸をしたストロイエを歩きニューハウンに到着した。運河沿いにある通りは人混みでごった返していた。いつもここは混雑はしているがこんなに人が集まっているのを見たのは今まで一度もなかった。港の祭りの特別な日であったと後で聞いた。やっとたどり着いたニュウハウン23番地のレストラン「妖精の丘」はすでになく「GARIONEN」という名前の看板が目に入った。クーラウに関係する名前が消えてしまったことを残念に思いながらようやく王立劇場の前の広場にたどり着き、演奏会後に食事することにして夕日を浴びながら家族でホットドックを食べた。こんな時間を過ごすことは日本ではあり得ない。二人はどう思ったか知らないが、私は一人で幸せをかみしめていた。

 今日はトーケ氏もこの演奏会に来ると言っている。開演少し前に劇場に入った。居る居る、入場券を届けておいたお弟子さん達がそれぞれの席に着いている。ホッとした。コペンハーゲンに着いたばかりで彼女らの表情は眠そうである。20:00と言えば彼女らにとっては夜中の3時である。その時間から3時間ぐらいかけてオペラを観るのである。眠いのは当然である。

 クンツェンはクーラウのデンマーク時代の王立楽団の楽長である。作曲家で少なからずクーラウと関わり合いがある。『ホルガー・ダンスク』の再演はクーラウの『盗賊の城』と同様今世紀になって初めてその機会を得たものである。デンマーク以外で知っている人はまず少ない。その機会を逃さなかったお弟子さん達の意気込みは偉い。作品は古いが演出は新しい。レーザー光線のようなものを使ったり、シャボン玉などが落ちてくる。真っ先に眠りに入った愛美はこういう場面だけはちゃんと記憶している。睡魔との闘いをしているお弟子さん達を横目で見ながら私は存分にこのオペラを楽しんだ。

 終演後出口でトーケ氏と会う。愛美は3/4は眠りの世界に埋没している。食事をあきらめトーケ氏と一緒にホテルのあるヴァルビューにタクシーを走らせた。トーケ氏はホテルの部屋でビールを飲もうと言う。我々が食事をしていないことを知って家に戻ってオープンサンドイッチを持ってきてくれた。急いで彼が料理したものである。すでに家内と愛美は夢の中。いろいろな話をして今日も盛り上がる。得意の抜き足差し足でトーケ氏は自宅に戻った。

8/26 初段四日目

今日もすばらしい天気だ。

いよいよ『盗賊の城』を聴く日である。開演は19:30。

午前中、ホテルから歩いて10分足らずのところにある動物園に行った。主役を持ち上げるのに結構気を遣っているのだ。家内は第一回目の時に一人でここを訪れている。亭主がクーラウにかかりきりになっているすきに。今日は万全を期して昼寝をする事にしその時間に合わせてホテルに戻った。2時過ぎに全員が寝込んだ。目を覚ましたのがブスク氏と約束している30分前。5時半である。1分でも遅れたらまた時計を示して怒られそうだ。身繕いをしながらメッテ叔母さんにタクシーを呼んでもらうよう愛美にたのんだ。「頼んだよ」と言って愛美は戻ってきた。しかしタクシーがなかなか現れない。本当に愛美が英語で頼めたのか疑わしく思えてきた。私は主人に確認をしに行った。タクシーは呼んであるという。愛美を疑ったことに済まない思いで戻ると愛美は日本に帰ったら英語の勉強をしたいと言ってくれた。出かける前に私は英語の勉強を盛んに勧めたのである。しかし、見向きもしてもらえなかった。こんな事から語学の必要性を感じてくれたなら愛美にタクシーを呼ぶように頼んだことも教育の成功例かもしれない。間もなくタクシーがやってきた。こうして約束の5分前にはチヴォリに到着することができた。

 ブスク氏が話していたもう一つのインタビューとはゴールデン・エイジ・フェスティヴァルの主催者が行うものだった。チヴォリの中にある約束のレストランに向かった。前日のことがあったので私は少し緊張していた。レストランには席が用意されていた。そこには前回のゴールデン・エイジ・フェスティヴァルに参加した時、我々の演奏会を担当した関係者がいて挨拶をしてくれた。そこに数人の記者が到着したが、話をするには周りの喧噪に勝てず、我々はレストランの中庭のような場所に移り立ったままインタビューが始まった。ブスク氏と私は10人ほどの人たちに囲まれた。言葉は何が良いかなどと話している。デンマーク語で質問に答え始めたブスク氏を制して「一人が英語でお願いします」と言った。変だなと思いつつも聞いているとクーラウのオペラ『盗賊の城』と作曲家クーラウのことに質問が絞られ、私はただ蕩々と英語を話すブスク氏を眺めていただけで、ついにはブスク氏をビデオに写していた。いつの間にか私はカメラマンになっていた。記者会見と言われ出席して一言もしゃべらない内に終わってしまったことにいささか肩すかしを食った感を抱いた。後でブスク氏に聞いたところ彼らはオランダのジャーナリストでデンマークのゴールデン・エイジ・フェスティヴァルを取材に来た人たちだったのである。薦められた食事を断りブスク氏と二人で家族の待つ外へ出た。そこには例のブスク氏家族が顔をそろえていた。リーセの弟、ボイエ氏夫妻もそこにいた。彼は以前「妖精の丘」ツアーのお別れパーティでギターを持参して我々を楽しませてくれた人である。アネッテは子供の世話で演奏会後に来るという。こんな風にブスク氏の家族は結団力が強い。1879年の91回目の公演を最後に121年ぶりのクーラウのオペラの再演である。彼らにとっても興味あることなのだろう。そこにたまたま通りかかった昨日のお弟子さん達とめぐり会い人混みの中を民族大移動してやっと見つけた席で『盗賊の城』鑑賞の前祝いの乾杯をした。

 日本で出発前に『盗賊の城』のコンサートについてインターネットで調べてみたが思うような記事にめぐり会わなかった。100年以上眠っていた作品の再演である。しかも、一回しか行われない演奏会だ。デンマークの音楽界がそのことに注目してニュースを世界に流しても良いはずだ。演奏会場と指揮者、歌手数人、オーケストラ名、開演時間だけの項目が見られただけだった。ホールはチヴォリ公園内にあるコンサートホール。客席数は正確に確認しておかなかったのでここでは控えるが二階席が有り、日本では大ホールと呼ばれる規模のものである。しかし、満員ではなく8割方の入場者だった。この演奏会の入場券はずっと前からブスク氏にお願いしておいた。彼は関係者全ての席順を決めていた。ブスク氏と私は最上の席で隣り合わせに座らされた。席に着いた時ブスク氏はこの席は二人の王様のものであると言った。ブスク氏の王様は良いけれど私が王様と呼ばれるには10年早いと思う。

 開演のベルが鳴りいよいよ始まる。この演奏会はその後CDに収録され発売されるという話だったが、ブスク氏からそのプロジェクトは流れたと聞いた。これを聞き逃したら生きている内にもう一度聴けるかどうか分からない。聴き逃してはいけないとウサギのように耳を立てた。いつものようにオーケストラの音合わせが済みステージ下手から指揮者が現れた。タマス・ヴェトというハンガリー人でデンマークで永く活躍している。拍手が鳴りやむか鳴りやまない内に指揮者の棒が振り下ろされた。序曲である。『盗賊の城』の序曲はクーラウの序曲の中でも一番短い。うん、なかなか良いオーケストラだ。序曲が終わった。指揮者の指示に従って今日出演する歌手達全員の登場。昨日のゲネプロで全員の顔を覚えていたから初めてのような気がしない。突然マイクをにぎり指揮者がしゃべり出した。なにか面白いことをしゃべるらしくお客さんが笑うのだがこちらにはちんぷんかんぷんである。こんなことはウイーン留学中、オペレッタを聴いたときしょっちゅう味わったことだ。こう言うときの対処法はじっと耐え次の音楽まで待つか、耳をそば立たせ自分の辞書に書いてある言葉と同じものをキャッチしつなぎ合わせるか、あるいは語り手の表情や声色から思い切り想像力を働かせ意味をさぐるかが考えられる。今回は三番目の方式ですることにした。それによると歌手達の役柄を紹介しているようだ。一通りの紹介が済み指揮者が指揮台に上がったところに下手から背広を着た普通のおじさんが黒い布に包んだものをもってステージに出てきた。指揮者はそれを受け取ると指揮台の上に置き、黒い布をほどき始めた。中から『盗賊の城』のスコアとおぼしきものを取り出すと観客の前ではたきを取り出しスコアのほこりを払うゼスチャーをした。121年ぶりの再演を意味しているのだろう。これはゼスチャーだから私にも笑えた。全て指揮者のアイデアだったようである。観客の笑いが収まると指揮者の棒は振り下ろされ第1幕が始まった。

(つづく)