第4回クーラウ詣りツアー(IFKS会報第10号掲載文)
リュンビュウ・プリマヴェラ・フェスティバルと麗しき春のデンマーク訪ねる旅
第4回クーラウ詣りツアー紀行文
「私のクーラウ詣りツアー」2009 石原 利矩 第4回目のクーラウ詣りツアーが4年ぶり今年、5月17日~26日に「リュンビュウ・プリマヴェラ・フェスティバルと麗しき春のデンマーク訪ねる旅」と題して行われた。総勢42人という大人数となった。団体行動を取らず、各自の責任において行動するという趣旨で集まった参加者の中には途中ドイツやフランスに出かける人も現れた。その他自分の旅行に合わせて外国からデンマークに入る人も含まれた。このようなクーラウ詣りツアーは初めてのことだったので、参加者のコミュニケーションが少なく統一がとれない旅行になるのではないかと心配したが、それは杞憂に終わった。 振り返ってみるとクーラウのことを調べようと思い立った時からすでに22年が経っている。トラーネのクーラウ伝記を片手にお墓を探し当てたときのことは忘れられない。リュンビュウ教会の丘の上から見た一軒の木造の建物が目に入らなかったらこのツアーも行われていなかっただろう。そこで巡り会った1冊の本が私の半生を変えてしまったのだ。 「親愛なる聴衆の皆様!なぜ私がここに立っているのでしょうか?」とリュンビュウ教会の演奏会の前に聴衆に向かって挨拶したのは、その1冊の本がその日の演奏会をする遠因となったこと、そしてそれがこんなに大きく広がったことを知っていただきたかったからだ。 今回、プリマヴェーラ・フェスティバルでクーラウの名前をあちこちで耳にした。こんなことは日本にいては滅多にないことだ。フェスティバルのパンフレットに謳っているようにこのフェスティバルの中心人物はクーラウだったから当然ではあるが、クーラウがこれほど脚光を浴びたことはうれしいことだった。それにインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会(IFKS)がオープニング・コンサートの始まる前のリュンビュウ市長の挨拶の中でも、期間中特別に行われたリュンビュウ市・ユルツェン市・静岡市友好都市推進のレセプションでも高く評価されていることを実感した。 それでは今回のクーラウ詣りツアーを思い返しながら紀行文という形でご報告をしたい。 ●2009年5月17日(日)1日目 出発、オープニングコンサート 新型インフルエンザのニュースで騒がれている中、SK984は成田空港を11:40に飛び立った。もし、場所の移動に時間をかけない方法を発見したらノーベル賞をもらえることは必定だが、こうして11時間あまりをかけて移動することが無くなったら旅が旅として捉えられなくなるだろう。苦労してやっとの思いで目的地に着くことも旅を旅として完成させる一因になっているのだ。 カストルップ空港でトーケ・ルン・クリスチャンセン氏、小野宏子さん(トーケ氏のもとで研鑽中)、米嶋光敏(ロンドン勤務)さんが出迎えにきてくれていた。トーケ氏はバスに乗り込んで一人一人に歓迎の辞を述べてくれた。今回のプリマヴェーラ・フェスティバルのプロデューサー、音楽監督、また演奏家として重責を果たしているトーケ氏が忙しい合間にも迎えにきてくれたことはうれしいことだった。こうして貸し切りバスでホテルに着きチェックインをした後すぐに身支度を調えてリュンビュウ市の20:00開演のオープニング・コンサートへ同じバスで向かった。1ヶ月後に夏至を迎えるこの時期は、19時過ぎとは言えまだ明るい。日本との時差が7時間。開演の時は日本時間で夜中の3時となる。日本にいたら明け方のコンサートを聴いているようなものだ。開演前にラジオ放送局のインタビューがあることをトーケ氏から言われていた。演奏会が始まる前に会場の片隅でインタビューが行われた。IFKSのことを話そうとしたがしどろもどろなデンマーク語に英語、ドイツ語が混じって何をしゃべったかはっきり覚えていない。いつも外国旅行するたびに感じるのだが向こうの言葉で舌が回り出すのに二三日かかることが多い。今回も同じだ。終わった後トーケ氏が「大丈夫、ちゃんと編集してくれるから」と慰めてくれた。誰かのいびきが聴衆の邪魔をしないことを祈りつつ弦楽六重奏、ピアノ五重奏の演奏会を聴いた。 帰り道はこれから毎日リュンビュウに通うため電車でコペンハーゲンに帰る練習を行った。事前に回数券を旅行社の人に用意しておいてもらい刻印の仕方を習い、オスターポート駅からホテルに徒歩で帰り着いたのが23時過ぎ。日本時間で朝の7時。朝帰りの初日が終わった。 余談だがデンマークの電車は改札口の乗車券のチェックがない。検札に会わなければただで乗車できる。しかし、捕まると高い罰金を払わされる。外国人だから乗り方がわからなかったと言っても許してもらえない。フェスティバル中はコペンハーゲンからリュンビュウまで毎日電車に乗ることになる。そんなわけで電車の乗り方を覚えることは必須条件だった。ついでだから告白するが私はデンマークに何回も来ているが回数券を買ったのは今回が初めてのことだった。このおかげで今後の旅行では倹約できそうだ。 ●5月18日(月)2日目 今日はプリマヴェラの期間中演奏が行われない唯一の日。オプショナルツアーで15名の人が市内観光。王立図書館訪問。三都市友好都市(リュンビュウ・ユルツェン・静岡)推進のレセプション バス添乗ガイドの「みどり」さんはいつだったか以前のツアーの市内観光で一緒になった人だ。しかし、本人は忘れている。彼女は予定の所要時間を見て市内だけでなく北シェランへ行くことができると言う。クロンボー城、フレデリックス城などは初めての人には見ておいてもらいたい所だ。直ちにコース変更して出発した。私はホテルの玄関で彼らを見送った。その日ツアーに参加しないその他の人は独自の時間を楽しんだらしい。
私は王立図書館に用事があった。クーラウの作品でまだ手に入れていないものがある。その他、以前依頼したコピーの不揃い、ページ抜けなどの補充が目的だ。事前に昔ブスク氏から紹介してもらったClaus R?llum-Larsen氏と日本を出る前にメールでアポイントメントを取っておいた。土曜日、日曜日は図書館は閲覧だけなので月曜日のこの日しか私が動ける日はなかった。クラウス氏は以前会報でもお知らせしたとおり、楽譜のことでは大変お世話になった人である。今回は彼の私室へ直接案内してくれた。そこには様々な音楽資料が積み重なっていた。彼はコンピューターに向かって、私のメモを見ながら必要なコピーの依頼を打ち込んでくれた。現在は初版の楽譜がパソコンで見られるものもいくつかあった。いずれそれが完備されれば図書館に行かずに楽譜が手にはいることになる。このように貴重な文化遺産を惜しげもなく公開するところは懐が深いというか、大変有意義なことである。クーラウは著作権が無いからそれができるのだろう。 ここにその URLをご紹介しよう。 Printed music in 19th Century editions Selected works in manuscripts まだ完備していないが順に充実されるという。初版本や自筆譜が簡単に取り出せる。このように楽譜が手に入ることによってこれからますますクーラウの音楽に興味を持ってくれる人が増えることだろう。
もし、私がクーラウのことを調べ始めた頃インターネットがあったらどんなに助かったことだろう。しかし、それで済ますことができなかったおかげでいろいろな人と巡り会うことができたと言える。クラウス氏は3時間ぐらい私のために時間を割いてくれた。「黒いダイヤモンド」の異名を持つ王立図書館を後にして、久しぶりのコペンハーゲンを散策した。いつの間にやらストロイエを過ぎ、気がつくとニューハウンのクーラウの家の前に立っていた。デンマークへ来ると必ずニューハウンにやってくるのが私の習いとなっている。23番地の黄色い家の前のカフェテラスでクーラウが住んでいた2階を見ながら遅い昼食をとった。今回の唯一の自分一人の時間だ。ビールを飲みながらクーラウ研究の来し方を思い返し感慨に耽っていると、聞いたことがある日本語が聞こえた。「ここがクーラウが息を引き取った家よ!」。その声を追ってよく見ると今日、市内観光に出かけたご一行である。「あれ~、こんなところで~」とお互いに奇遇を笑い合った。彼らは北シェラン観光を済ませ市内に戻っての途中だったのだ。時差もなんのその、皆元気にコペンハーゲンを満喫していたようだ。
この日は夕方、多忙の酒井秀明氏が到着する日である。彼はフェスティバルの中で20日の「フラウティッシモ」と21日の「クーラウ・アンサンブル」の演奏会のためだけに参加してくれた。終わるとまたすぐ日本に帰らなければならない。彼の到着をホテルで待ち無事着いたことを見届けて、私はトーケ氏の車でリュンビュウ市に向かった。19:00よりリュンビュウ市、ユルツェン市、静岡市の友好都市推進のレセプションがありこれに出席をすることになっていた。それはリュンビュウの「フリーボースヴィル」と呼ばれる館で行われた。出席者はリュンビュウ市長夫妻、ユルツェン市長夫妻、ユルツェン市のウーテ・ランゲ=ブラッハマン女史夫妻、トーケ氏夫妻、ブスク氏夫妻、プリマヴェーラ関係者、約20名の集いだった。特に友好都市のことが議題として取り上げられた訳ではない。将来的にクーラウを通して音楽文化の交流を深めるための顔合わせの会合という趣であった。この席にデトモルトのドンボワ教授が出席できなかったことは残念なことであった。氏は友人の車でデンマークに来る予定になっていたが友人が病気になってしまい来れなくなってしまったのだ。「フリーボースヴィル」は由緒ある昔の貴族の館で、「ソフィエンホルム」や「ソルゲンフリー」(無憂宮)など歴史的な建物がリュンビュウの文化遺産として大事に保存されているものの内の一つである。このような古い建物の部屋でローソクの光のもとで行われた晩餐会はなかなか味わいがあった。トーケ氏が「Kanpai」と言って音頭を取った時、一同何のことかわからなく怪訝そうに顔を見合わせていたがその内の一人が「方言ですか?」と発したのをトーケ氏はすかさず「そう、方言です」と受けてすまし顔をしていた。和やかな内に夜も更け、このレセプションのテーマが「クーラウ」であったこともうれしいことであり、3都市が一緒になってクーラウ受容を進める最初の一歩となったことは確かである。 ●5月19日(火)3日目 今日は20日の「フラウティッシモ」の練習。その後すぐにクーラウ・アンサンブルのデンマークにおける最初の練習。それが終わると20:00からフェスティバルの第2回目の「歌曲隊」のコンサート。一日中音楽に浸る日だ。
「フラウティッシモ」とは造語である。トーケ氏のよく使うものだ。イタリア語の最上級を意味し形容詞の後にissimoを付けて作る。フォルテがフォルティッシモ、ドルチェがドルチッシモになることは皆様よくご存じのことだ。名詞に付ける方法は文法を無視したものだ。この場合「フルートの音楽で溢れている」という意味になろう。フルート4人、ピアノ、ハープの組み合わせで行うことになっているが、プログラムの曲順が解ったのは演奏会直前である。アンコールは日本を出発する少し前にトーケ氏が「としのりに任す」とメールで言ってきた。急遽、『妖精の丘』の音楽を上記の組み合わせで編曲してパート譜も作りpdfファイルで送った。この曲はクーラウ・アンサンブルのアンコールに使うものと幾分変えて編曲した。さて練習が始まろうとしたときにトーケ氏がカルテット(Op.103)の自分のパートの楽譜を持ってきていない。「出かけるとき探したのだが見つからなかった」と言う。そんなこともあろうと全てのパートは持って行ったのが正解だった。私はこんな時に「トーキッシモ」と用いている。さて、アンコールの練習でもおかしな音がする。よく調べてみるとトーケ氏の楽譜が送ったものと違うのである。そんなこともあろうと全てのパートは持って行ったのがここでも正解だった。ハープのティーネ(Tine Rehlig)もフルートのケニー(トーケ氏の弟子)もテクニックは万全。酒井氏、このみさんのアンサンブルも見事。すばらしい演奏会になるだろう。 クーラウ・アンサンブルは日本勢32名、トーケ氏のお弟子さん8名で行うことになっていた。トーケ氏のお弟子さんにそれぞれのパートを補強してもらえればありがたいことだ。そこで全てのパート譜を1ヶ月以上も前にトーケ氏に送った。ところが事前にデンマークから送られてきたプリマヴェラのパンフレットには「ピッコロからバスまで20名以上の団体」と紹介されていた。バス、アルトは最初から予定に入っていなかった。これをあてにしてきてくれるお客様に失礼だ。アルトとバスはトーケ氏のお弟子さんがやってくれることになった。急いでアルトとバスのパートを補充して送った。案の定、これらのいろいろな種類の楽譜によって再び「トーキッシモ」が起きることとなったがここでは省略をする。----- その日リュンビュウ教会を見学に行ったお弟子さんから「先生、あんな狭いところで演奏できるのですか?ピアノもありませんでしたよ」という報告。トーケ氏との事前のメールのやりとりでは「会場OK、ピアノOK」とのこと。狭ければ立って演奏するしかない。しかし、ピアノがないというのは論外である。全ての曲はピアノ付きで編曲していたのだから。とにかく明日下見に行って立ち位置を確認しなければと考えているうちに「歌曲隊」のコンサートが始まった。ソプラノ、メゾソプラノ、テナー、バスの四人のソロ、アンサンブルなどいろいろな組み合わせで「妖精」をテーマにして多数の曲が紹介された。ピアニストがデンマーク語で解説したが殆ど理解できなかった。読むと聞くのギャップの大きさをつくづく感じる言語である。しかし、それぞれの歌唱力は優れたもので、美しいメロディが続き、特にレーヴェとシューベルトの「魔王」の両方を聴けたことも興味深かった。プログラムの中にクーラウの歌曲が一曲も入っていなかったのは残念なことだった。多分、クーラウの歌曲が声楽家に知られていないのかもしれない。 ●5月20日(水)4日目 今日は本番を明日に控えたクーラウ・アンサンブルの二回目の練習、その後「フラウティッシモ」の演奏会。
練習前にリュンビュウ教会を訪ねた。20年前に訪れたときは扉が閉まっていて中に入れなかった。今日は扉が開いていた。教会の人は誰もいない。見渡したところ、祭壇の方にはいくらかの空間はあるが座って演奏できる広さではない。パイプ・オルガンはあるがピアノがない。もしかして倉庫に入っているのかと思ったが倉庫など見あたらない。これは困った。文化会館に戻りトーケ氏に事情を話した。ピアノがあると言ったのは電子ピアノのことであった。どこからか運び込むつもりだったのだろう。今回の編曲は全てピアノが入っている。電子ピアノでは「コペンハーゲンの魅力」は魅力を発揮するには不十分である。何とかしてもらうようにお願いした。練習中にトーケ氏から「ピアノが確保された」と伝言が入る。勿論アップライト・ピアノだ。一軒の業者から借りることができたとのことだ。明日はキリスト昇天祭でデンマークの祭日に当たっている。もしも、対策が遅れていたらピアノは電子ピアノで演奏されたのだろう。明日のため今日は立って練習をしたほうが良い。「コペンハーゲンの魅力」にはデンマーク国歌(王家の)のメロディが含まれている。この曲の場所で起立する約束をしていたが、元々立っていてはそれができない。この箇所の前で一旦中腰になってその箇所に来たら、背伸びして演奏することに決めた。デンマーク人の聴衆はこの曲が流れると全員起立する習慣になっている。昔、観た『妖精の丘』の時もそうだった。これは『妖精の丘』の序曲の中にその曲が用いられているからだ。『コペンハーゲンの魅力』の中にもその曲が用いられている。但し、『妖精の丘』よりも短い。お客様は立ったと思ったらすぐ座らなければならない。あとで録画を見てみると立っているべきか座ったものか躊躇しているお客様の後ろ姿が映っていた。 「フラウティッシモ」の演奏会では服装はどうしたらよいかをトーケ氏に事前に聞いておいた。「男性はダークスーツ、黒ワイシャツ、ノーネクタイが現代のデンマークのスタイル」であるという。出発前に酒井氏に連絡をしておいた。ところがである。当日のトーケ氏は黒ズボンで普段着ているグレイの上着に白いシャツである。ケニーは黒上下に白ワイシャツ。ノーネクタイだけは合っていた。「言ってきたことと違うじゃないか」と抗議したら「何でもいいんだよ」という返事。「あれ~」。またもトーキッシモである。酒井氏と私はまるで大石内蔵助になったようだ。 トーケ氏はプリマヴェラの音楽監督である。演奏会の始まる前には毎回聴衆に向かい挨拶をする。彼はデンマーク語はもちろんのこと英語、ドイツ語はぺらぺらである。臨機応変に早口にしゃべる。ほとんど、即興のスピーチだ。リュンビュウ市長はどんな場合もメモを見ながら話すのと大違いだ。「フラウティッシモ」の演奏会でもプレゼンテーターとして活躍した。一緒にアンサンブルをしていてトーケ氏の音楽の力が大きいことを実感した。プロの実力をまざまざと感じながら熱のあるステージが繰り広げられた。勿論、酒井氏とこのみさんの演奏も素晴らしかったことは言うまでもない。アンコールの『妖精の丘』の音楽も好評だった。 これで今回のツアーの大きな山を一つ乗り越えることができた。明日はまた大事な一山が控えている。 ●5月21日(木)5日目 今日は祭日、16:00から弦楽四重奏団の演奏会(マチネー公演)。その後リュンビュウ教会で20:00からツアーの大きな目的のクーラウ・アンサンブル演奏会。
弦楽四重奏団の演奏が始まる前にリュンビュウ教会の会場のセッティング、立ち位置を考えなければならない。ピアノが気がかりだ。午後の早い時間に教会に行ってみた。トーケ氏も心配してそこに来ていた。アップライトピアノが通路に置かれていた。さてピアノの位置決めが難しい。指揮者の位置も難しい。いろいろ考えた末、祭壇の前にできるだけ大勢詰めてあぶれた人は参詣者の座る座席の中に立ってもらうことにした。ピアノの置き場所は指揮者のすぐ前の位置、牧師さんが出入りする通路しかない。そこにピアノをおいたら人が通れなくなる場所だ。ソリストの酒井氏は会堂の中央の通路に立つ。指揮者は祭壇に近い囲いのある空間の中と決めた。しかし、椅子の上に立たなければ皆から見えない。半分客席に顔を向けて立つ。指揮者の後ろには椅子に座ってアルト、バス。およその配置を決めてフェスティバル会場に向かう。 シェラン弦楽四重奏団のプログラムの中にクーラウの「白鳥の歌」とも言える作品122の演奏がある。聴きのがすことはできない。生演奏は私はこれで2回目だ。最初はIFKS定期演奏会でのモルゴア・カルテットの演奏だった。いつ聴いてもこの曲がクーラウの最後の作品となったことは悔やまれる。6曲の予定が1曲しか書けなかったのだ。あと10年クーラウに命があったとしたら、素晴らしい作品が生み出されていたであろう。10年と言わす5年でも3年でもよい。この曲のようなものがクーラウの本来の書きたいと思っていたものだ。この曲を聴くたびにクーラウの運命に思い巡らす。終演後そそくさとリュンビュウ教会に向かう。徒歩7~8分ぐらいのところにある。クーラウ詣りツアーの一行が足早に移動をしている姿は戦場におもむく兵士を想像させた。それほど皆の意気込みが漲っていたということだ。 リュンビュウ市が2009年ユニセフ都市となった関係で我々の演奏会の収益はユニセフに寄附されることになっている。入場料50クローネ。毎回ツアーのたびにコンサートをしているが有料となったのは今回が初めてのことだ。ゲネプロでは上記(トーケ氏と私が教会で考えた立ち位置)のような配置となったがこれは出発前の座席位置とは全くかけ離れたもので、普段隣にいて助けてくれた人が見当たらず途方に暮れた人もいたようだ。ゲネプロをしている間にも気の早いお客様がどんどん入場してきた。 20:00いよいよ開演。まずリュンビュウ市長の挨拶から始まった。相変わらず原稿を読みながらのスピーチだった。その後トーケ氏がいつもの開演の辞を述べた後、私がやおら椅子の上に立ち聴衆に向かって挨拶をした。内心はヒヤヒヤだった。なぜならデンマーク語でしゃべったからだ。「今晩は、聴衆の皆様。なぜ私がここに立っているのでしょうか?それは一冊の本が原因です。二十年以上前の1987年、私は初めてデンマークを訪れました。これは私のクーラウ研究の第一歩でした。そのとき私はリュンビュウを訪れクーラウの散歩道を歩きました。そしてここリュンビュウ教会に来ました。ふと下を見ると一軒の家が目に入りました。そこはリュンビュウ図書館でした。私はその扉を開けクーラウの資料が何か無いかと尋ねました。係の人が一冊の本を持って来てくれました。それが、この本です(と言ってその本をお客様に示しました。今回デンマークに来てからブスクさんから借りたもの)。それはデンマーク語で書かれ読むことはできませんでしたが、そのタイトル『フリードリヒ・クーラウ その生涯と劇場作品の分析』ということだけは解りました。そしてコペンハーゲンでその本を買い日本に帰りました。その後、この本の著者との知遇を得ることができました。著者の名前はゴルム・ブスク博士です(といって客席に座っていたブスク氏を紹介しました)。東京におけるクーラウのオペラ『ルル』や『魔法の竪琴』の上演はブスク氏の親切な指導のおかげで行われました。その本のおかげで私は今ここに立っているのです。」
結構長くしゃべっていたらしく、「へー、先生デンマーク語もしゃべれるんだ。」と言って尊敬を新たに(?)してくれた人もいたようだが、前の晩ホテルで声を出してこのスピーチを練習していたのは誰も知らないだろう。人知れず努力しているのである。終演後、デンマーク人のお客様からお世辞かもしれないが「良く解った」と言ってもらえたのでホッとした。 この日のハイライトは酒井氏の『ルル』ファンタジーのソロ(この曲はいろいろなヴァージョンがある。特に今回は酒井氏にルルのソロ部分を全て吹いてもらうヴァージョンだった)。清水から参加した吉田正さんの日本民謡の中の尺八ソロ。吉田氏は昔から趣味で尺八を吹いている人。一世一代のデンマークでのデビュー。その日は朝からホテルのそばの運河に行って練習をしていたのは衆目の知るところ。私もホテルを出るときにその音をかすかに耳にしていた。しかし、このコンサートのハイライト中のハイライトはアンデルセン作曲「銀のミルテ」だった。今回の旅行は自由行動が趣旨だった。私はメンバーの結束感が少ない旅行に終わるかも知れないという危惧を抱いていた。しかし、「銀のミルテ」がいかにみんなの心が一致しているかを証明してくれた。曲はピアノソロの前奏で始まりすぐワルツのリズム(4小節)が続く。みんな、体を揺らして気持ちよくワルツを吹き始めた。Aの部分、Bの部分が終わりCの部分に入るところで突然ピアノが最初の前奏を弾き出した。私の心臓は踊り始めた。「え?なぜ?なぜなの?」という目つきをしてピアニストの顔をのぞき込んだ。ピアノのKさんは知らん顔して演奏に没頭している。そして再びワルツのリズムの4小節が皆を引き込むように演奏された。このとき私の棒は力なく宙をさまよっていたように思う。しかし、全員がAの部分を吹き出した。ままよ、もうみんなに任すしかない。きっと今度はCの部分に入ってくれるだろうと思っていると、予想に反してAの後部にあるマーク(記号)から最後のコーダに移った。ままよ、もう終わるしかない。そしてコーダのストレットで最後の和音が響いたときの私のとまどいはなんと表現したらよいか解らない。お客様の拍手(殆ど耳に入らなかった)に答えた私の顔はどんな表情をしていたのだろう。それにしてもこの一致団結した演奏は見事という他なかった。それにしても私の指揮者生活(そんなものはないが)の中でショッキングな事件として後世に残る話となりそうだ。これでみんなの心が一体となっていることが証明された。なおCの部分は歴史の闇に葬られた。
演奏会が終われば「打ち上げパーティ」が待っている。これについても長い話がある。しかし、ここでは簡単に述べたい。夜遅くから始める宴会であったことと、その日が祭日だったため宴会場を探すのに大変苦労した。ここでも正にトーキッシモの働きがものを言った。二転三転した会場が日本出発直前にやっと押さえることができた。しかし、その店「クランチ」はリュンビュウからコペンハーゲンを経由してその先まで移動しなければならない。電車で移動したら開宴は11時過ぎになってしまう。出発前ぎりぎりにJTB(今回のツアーの代理会社)を経由して貸し切りバスも手配できることになった。教会の演奏会が終わり予約のバスが教会の丘の下で待機していたのを見てホッとした。ここでトーキッシモと言ったのは前述のピアノ事件と同様なことがあったのだ。「混乱と解決」を含んだ使用法と解釈していただきたい。 打ち上げパーティは協演してくれたトーケ氏のお弟子さんたちや出演者たちの演奏会を成し遂げた充実感と開放感によって、打ち解けた楽しい雰囲気の内にその笑い声が夜の更けるまで響いていた。 ●5月22日(金)6日目 今日は20:00トリオ・コン・ブリオ演奏会。それまで自由な時間となる。当初予定されていたオプショナル・ツアー「マルメ」観光旅行は20日にクーラウアンサンブルの練習が入ったため取りやめとなった。そんなこともありこの日のオプショナル・ツアー「オーゼンセ」観光はそこから流れた人もあり20名となった。その他のクーラウ詣りツアー参加者はこの日に思い思いの計画を立てていたはずである。中にはフランスやベルリン・ライプツィッヒ小旅行に旅立った人もいた。 私はこの「オーゼンセ」組の一人であった。デンマークには何度も訪れているが観光は殆どしていない。勿論、オーゼンセにも行ったことがない。こんな時でないと行くことは先ずないだろう。H.C.アンデルセンの生まれ故郷を見てくるのも一興であろう。アンデルセンとクーラウの関係がもっと深かったら事情は違っていただろうが。クーラウとアンデルセンは全く関係がないわけではない。アンデルセンがオーゼンセからコペンハーゲンに出てきた時にその援助の手をさしのべた人たちの中にクーラウもいた。しかし、アンデルセンの書いた台本「からす」に作曲するよう劇場から依頼を受けたクーラウはそれを断っている。生前二人が顔を合わせたことがあったかどうかの記録はない。
オーゼンセはフューン島にある。コペンハーゲンのあるシェラン島から橋を渡って行かなければならない。この橋は世界最大のプロジェクトと言われ1998年、5000億円をかけて建造されたもので一見に値するものだ。海の上を延々と橋が続く。現在はドイツからユトランド半島、フューン島、シェラン島、スエーデンと全て橋でつながっている。オーゼンセの町にはまるでおとぎの国に来たような一画がある。その近くにアンデルセンの博物館(Andersen Hus)がある。そこには切り絵、スケッチ、自筆書類などが飾られ、多彩なアンデルセンの才能を伺うことができる。その中でロープがとぐろを巻いて置かれていたのが印象に残った。これは旅行中アンデルセンが携帯したもので火災の際の避難道具と言うことだった。それとアンデルセンは生涯虫歯に悩まされていたと言うことだった。「アンデルセン自伝」を読んでおくと展示物に一層の興味が湧く。クーラウの音楽を理解するにはクーラウ伝記を読むことをお薦めする。身近に音楽が伝わってくるかもしれない。
オーゼンセの町を後にしてイーエスコー(Egeskov)にあるお城に行った。湖の中にたたずむお城は素晴らしい景観だ。デンマークには美しいお城が沢山あるがこれもその内の一つだ。ここは現在も人が住んでいるという。代々の所有者の名前の一覧があったがきっと大金持ちに違いない。庭園の一角にクラシック・カー博物館があった。代々の住人の所有していたものかもしれない。飛行機もあったのにはびっくりした。こうして久しぶりの休日(と言っても夕方までだが)をのんびり満喫した。帰り道は夕方のラッシュアワーのため道が混んでいた。ホテルに戻りすぐさまリュンビュウの音楽会場に向かった。 トリオ・コン・ブリオは中国人姉妹(姉チェロ)(妹ヴァイオリン)とデンマーク人のピアニストの編成でデンマークでは有名なアンサンブルである。噂に違わず、その演奏は情熱的かつ多彩な音色で惹きつけた。今回のフェスティバルの一つの白眉であった。 演奏会前に食事の時間が取れなかったオーゼンセ組のおなかをすかした数人でチボリ公園に行き食事をしようということになった。しかし殆どのレストランは10時で終わりとなっていた。毎回、チボリに来るたびに夜中の12時過ぎまで賑わっていた記憶があったが今回はどうしたわけだろう。淋しいチボリ公園だった。 ●5月23日(土)7日目 今日は16;00よりフェスティバルの目玉演目、「コレギウム・ムジクム」オーケストラ演奏会、その前に30分程度のブスク氏のレクチャがある。演奏会が終わると今回のツアーの締めくくる「お別れパーティ」が19;00から宿泊ホテルのホールで行われる。ツアー本体はもう一日あるのだが明日帰国する人が数人いることによりこの日に設定された。 ブスク氏の講演はデンマークの黄金時代の音楽、特にクーラウのオペラ作品を年代的に紹介して、さらにクーラウの「モデルテクニック」について今日演奏されるクーラウのピアノ・コンチェルトC-Durに使われている例を取り上げ自らステージでピアノ演奏をしながら解説したものである。デンマーク語で行われたので詳しくは理解できなかったがおよその内容は追うことができた。トーケ氏の「フラウティッシモ」演奏会の最初の挨拶は「ニホンノミナサマ、ヨウコソオイデクダサイマシタ」という日本語だったが、ブスク氏も負けてはいない。「イラッシャイマセ、ニホンノミナサマ」から始めた。日本語も国際的になったものである。
「コレギウム・ムジクム」オーケストラはデンマークで活躍しているプロの音楽家を集めて構成されている任意団体である。トーケ氏は事務局の中心人物である。1980年代から活躍を続け今年その終焉を迎えた。CDの録音や様々な機会に応じて組織され定期演奏会も行ってきた。クーラウのオーケストラ作品の多くはこの団体が演奏している。スポンサーの問題、楽員の老齢化などがその理由という。たまたまこの最後の演奏会がこの日に当たっていたのだ。いずれ再編成して出発すると言う話も聞かれる。指揮はデンマークで指揮者の重鎮、ミカエル・シェーンヴァント。第一曲目はチマローザの二本のフルートの協奏曲、ソリストはトーケ氏とミカエル・バイアー氏。二人は日頃ラジオ放送オーケストラで一緒に吹いているコンビだ。息のあった名演奏だった。さすがにこの日はトーケ氏はプレゼンテーションを行わなかった。あれだけ忙しくしているフェスティバルの中のどこで練習しているのかわからない。多分あまり練習ができなかっただろう。トーケ氏だったら初見でも吹いてしまうだろうと思いながら聴いた。二曲目はクーラウのピアノコンチェルト。私はCDでは何回となく聴いていたが生で聴くのは初めてのことだった。ソリストのAmalie Malling女史はすばらしいピアニストだった。あとでブスク氏に聞いたのだがIFKS出版の『ウイリアム・シェイクスピア』ピアノスコアの元本となっているOtto Mallingは彼女の何代か前の家系の人だそうである。事前に教えてもらっていたら話ができただろうに残念なことだった。最後の曲のシューベルトの交響曲第6番はシューベルトも「モデルテクニック」に長けていることを思わせる作品だ。ベートーヴェンの7番を思い起こしてしまった。この曲の演奏中指揮者のシェーンヴァント氏がコンサートマスターの譜面を指揮をしながら2回ほどめくってやったことが目を引いた。演奏後シェーンヴァント氏とその話をした時に、「このオーケストラは民主的なんだよ」という返事だった。最後の演奏会ということで演奏者もお客様も感慨深かったに違いない。終演後は楽団の「解散パーティ」があるとトーケ氏は言っていた。我々もパーティがある。「クーラウ詣りツアーお別れパーティ」である。すぐさま皆でリュンビュウ駅に向かいホテルにもどった。
クーラウ詣りツアーの陰の立て役者は「ブタさんの貯金箱」である。毎回ツアーの度に連れて行く。これは集合時間に遅れた場合の罰金入れである。今回のツアーはブタ・インフルエンザのためすこぶる肩身がせまい。まさか空港でチェックはされまいと考え連れて行った。今回は1分5クローネ(約70円)と出発前に取り決めた。お金が絡むと皆真剣になるという良い例である。今回の旅行は団体行動が少なかったので集合時間を設定する機会が少なかった。しかし、「お別れパーティ」は全員の行動だ。したがってブタさんが活躍する。しかし、この旅行が終わった時成田で検分したところ一銭も入っていなかった。旅行がスムーズに行えた裏にはブタさんがいた。
お別れパーティにはブスク氏夫妻、トーケ氏夫妻、フェスティバルの事務局スティーネ女史をご招待した。旅行ももうすぐ終わる。ツアー参加者はそれぞれ様々な楽しい経験をしたにちがいない。一様に満足感にあふれた顔をしている。乾杯は「スコール」というデンマーク語で始まった。私の挨拶はクーラウ詣りツアーの総括、特に「銀のミルテ」のおかげで一体感を感じ安心したこと、教会でのデンマーク語での挨拶の内容(これは日本人にはちんぷんかんぷんだったはずだ)の説明、トーキッシモに代表されるトー・ミヌーター(デンマーク語で2分、「ちょっとの時間」という意味)の哲学的解釈をしてちょっぴり皮肉を込めていろいろな意味でお世話になったトーケ氏にお礼を言った。幸いなことにツアーの度に私が日本語でしゃべるのを逐一外国人に通訳してくれる人にいつも恵まれる。今回はロンドン勤務のYさん、デンマーク留学中のAさんが助けてくれた。ブスク氏、トーケ氏、奥様、スティーネ女史などのご挨拶も頂き、最後に参加者一人一人のツアーの感想を述べてもらった。名残は尽きぬパーティだった。 しかし、ツアーはまだ終わった訳ではない。明日はフェスティバルのファイナル・コンサートの日だ。最終の演奏会のあとリュンビュウ市長の挨拶がある。その際ステージに私が呼び出されるということだった。何かデンマーク語で言わなければならない。緊張はまだ続けなければならない。 ●5月24日(日)8日目 今日はお昼の12時からホルン9本の演奏会。ブスク氏宅訪問。20:00フェスティバルを締めくくるデンマーク・ホルン・トリオ(ヴァイオリン、ホルン、ピアノ)のファイナル・コンサート。市長挨拶。 ホテルを出る時に先発の人たちとお別れの挨拶をした。何事もなく無事についてほしい。日本ではブタ・インフルエンザも少し下火になってきたらしい。楽しくしていれば風邪も寄りつかないというお医者さんの話を聞いた。恐らく成田で拘留されることはないだろう。12時少し前に演奏会場に到着した。ブスク夫妻も聴きに来ていた。ホルン9本の響きは力強い。J.F.フローリッヒ(クーラウの作曲の弟子)のオリジナルにホルン9本の曲がある。それが演奏された。なかなかこの編成で聴ける機会は少ない。私も初めて聴いた。デンマーク・ラジオ放送オーケストラとスエーデンのマルメ・オーケストラのホルン奏者で構成されていた。 今回はブスク氏と話す時間が限られていた。今日の二つの演奏会の合間にブスク氏のお宅にお邪魔することを日本を発つ前から約束していた。ブスク氏のお宅はリュンビュウからすぐ近くのVirumのBredevejにある。いつも、訪問する時はリュンビュウ駅で降りてタクシーに乗り換えて行く。「今度はサプライズが2つあるよ」と言ってくれていたので楽しみだった。
演奏会終了後トーケ氏がブスク氏のお宅まで車で送ってくれると言う。走り出したがいつもの道順と違う。数分後に、ある家の前に車が止まった。その家は昔見たことがある家だった。ブスク氏と一緒にこの家の前で写真を撮ったこともある。そうだ、クーラウが住んでいた家だ。勿論火災に遭った家ではない。クーラウはリュンビュウで何回か転居した。その内の一軒で今も残っているものだ。今回ツアーの人たちの内でこの家を独自に探し当てた人たちが沢山いた。皆一様に写真を撮って私に見せてくれていた。昔、ブスクさんに連れて行ってもらった家だと言うことがすぐわかった。しかし、今回は外から眺めるためにわざわざ行くつもりはなかった。車から降りた時「この家だったら知ってるよ」と言いかけたところブスク氏はすたすたとその家の玄関の扉に近寄り呼び鈴を押した。これが私へのサプライズの一つだったことがあとで判明した。後にトーケ氏から聞いたことだが車を運転した彼もそのことを前もってブスク氏から内緒にするように言われていたのだった。扉を開けて中に招じ入れてくれた人はこの家の持ち主、リュンビュウのクーラウ・ハウスに住むオルガニストVinding-Madsen氏だった。ブスク氏はこの家の中から私がクーラウの視点で外を眺められるように取りはからってくれていたのだ。クーラウはこの家の2階に間借りをしていたのだ。しかし、今は一軒の家が二所帯に分割されているのだという。2階に案内してもらい窓の外を眺めた。道路の標識などが目に入ったがクーラウのいた場所に立つことができた。この話をしたら外で写真を撮った人たちはうらやむに違いない。ブスク氏、トーケ氏、Vinding-Madsen氏夫妻としばらく歓談の時を持った。彼はIFKSに入会の希望を述べられた。いずれリュンビュウでIFKSの会員を好意的に迎えてくれる時がくるかもしれない。彼はクーラウの男声合唱曲を混声合唱に編曲して音楽会をしたこともあるという。クーラウの理解者がその家に住んでいることは有り難い。その際、IFKSホームページの「クーラウ度診断」も話題に上がった。インターネットが世界中を結びつけているこの時代にIFKSホームページに外国語(英語)のページを増やす必要を感じた。
もう一つのサプライズは私にとって本当にサプライズであった。それは、デンマークにクーラウの研究家がブスク氏以外にいるということだった。その人はJ?rgen Poul Erichsenというオーフスの近くに住んでいる人で、30年以上前からクーラウのことを研究していて、近々「クーラウ伝記」をドイツ語で出版するという。今までブスク氏からそんな話を一言も聞いていなかった。「IFKSのことも君の名前も知っているから連絡を取り給え」と言って彼のメールアドレスを教えてくれた。(以下後述) ブスク氏宅でクンツェンの『オシアンの竪琴』を弾いて聴かせてくれた。これはつい最近ブスク氏がクンツェンの研究者と共同で発掘した『オシアンの竪琴』をピアノスコアに編曲して出版準備中のものだった。『オシアンの竪琴』はクーラウの『魔法の竪琴』と因縁的な関係のある作品だ。このことはIFKS出版の『魔法の竪琴』ピアノスコアに詳しく述べているから会員の方々は皆ご存じのはずだ。---と言える日はいつ来るのだろう?なぜ、因縁的な作品であるかをご存じでない方は是非お読みいただきたい。と言うよりもお求めいただきたい。まだなまぬるい。買っていただきたい。在庫のため事務所がますます手狭になってしまったのです。IFKS出版物は識者から注目を集めているのです。(突然、デスマス調になってしまいました。)
話が脱線したが、ブスク氏宅ではあっという間に時間が流れてしまった。今回はブスク氏と一緒にゆっくり話ができる時間は今しかない。ブスク氏の居間では私は本当にくつろいでしまう。奥様も一緒に我々の付き合い(巡り会い)を思い出してはそのときのことを回想する。奥様は長年日記をつけている。今回私がブスク氏の家を訪問した日付を書き抜いた紙を手渡してくれた。1989年の最初の訪問から1992、1995、1996、1997,1998,1999,2000,2004,2005,2006,今回の2009を入れると12回目となる。今年はもう一回増えることになる。10月のユルツェンのクーラウ・コンクールのあとデンマークに立ち寄ることで再会を約してお別れをした。 そして再びリュンビュウの演奏会場に向かった。ファイナル・コンサートは締めくくりとしてはやや淋しい感じがしたことは3人の編成が地味であることにも依る。しかし、ホルンとピアノのクーラウの作品Andante und Polaccaが聴けたことはうれしかった。前日に言われたように演奏会終了後リュンビュウ市長の挨拶の際に私はステージに呼び出され、日本から大勢でプリマヴェラ・フェスティバルに来てくれたことに感謝された。私はデンマーク語で「Jeg haaber, at man vortsaetter Lyngby Primavera Festival.」 (リュンビュウ・プリマヴェラ・フェスティバルの発展をお祈りしています)とだけ言って挨拶をした (これは直前にブスク氏に聞いておいた言い回しだった) 。1年おきに行われるというこのフェスティバルに大勢が詰めかけるようになってほしいと言う意味を言外において。それ以上はうまく言うことができなかった。 こうしてプリマヴェラ・フェスティバルは幕が下りた。毎日、よく通ったものだ。こんなに演奏会を続けて聴いたのはウイーン留学の時を除いて他にない。さわやかな気持ちを抱いてホテルに戻った。
●5月25日(月)9日目 ●5月26日(火)10日目 成田を出発した時はメンバーの中にはマスクをしていた人が沢山いた。デンマークでマスクをしているデンマーク人には一人も会わなかった。ツアーの帰り道はメンバーは誰もしていなかった。全員、ブタ・インフルエンザにもかからず大して大きな事故もなく無事に日本の地を踏むことができたことで第4回クーラウ詣りツアーは終わった。 ○その後の報告
○最後に そんなことをニューハウン23番地の家の前で考えた。
(終わり)
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クーラウ詣りツアー
そもそも「クーラウ詣り」という名称は、1987年、石原個人がクーラウ研究のためデンマークに初めて行った時に付けたものです。その後、お弟子さんや関係者がツアーを組んでデンマークを旅行することが始まりました。大勢で行く研究旅行を「クーラウ詣りツアー」と呼ぶようになりました。
第1回のクーラウ詣りツアーは1996年にデンマークで行われた『妖精の丘』公演の観劇旅行です。
第2回のクーラウ詣りツアーは1998年9月ゴールデン・デイズ・フェスティバル参加旅行です。
第3回のクーラウ詣りツアーは2005年9月ウイーンとコペンハーゲン旅行です。
第4回のクーラウ詣りツアーは2009年6月の上記の「プリマヴェラ音楽祭」参加旅行です。
いずれも現地でフルートオーケストラの演奏を行ってきました。