IFKS定期演奏会の報告 (第24回)
「クーラウとウェーバー」
「今日も銀座は雨だった」と言うくらいクーラウの演奏会は雨が多いのです。台風第3号の雲行きが心配でした。予約のお客様は全員出席してくださり、定期演奏会では久々の満員のお客様でした。クーラウと同年に生まれた作曲家ウェーバーとの関連をテーマにしたコンサートでした。IFKS定期演奏会でクーラウ以外の作曲家で登場したのは今回のウェーバーが初めての作曲家です。ピアノ・ソロの2曲は本邦初演です(---と思います)。1時間半の演奏会は名手揃いの熱演で聴衆を魅了しました。鳴り止まない拍手に答えて酒井さんと伊吹さんがウェーバーのRomanza sicilianaを演奏してくださいました。
2013.6.14(石原利矩・記)
ヤマハ銀座・コンサートサロン(90席) | 開会の辞(ステージマネージャー:小島邦雄さん) |
1.クーラウ作曲 ピアノのための「狩人の合唱」(『魔弾の射手』より)による変奏曲・Op. 49-3(垂野鮎子さん) | 2.クーラウ作曲 フルートとピアノのための『オイリアンテ』の「ロマンス」による序奏と変奏曲 Op. 63(酒井秀明さん&伊吹このみさん) |
3.クーラウ作曲 ピアノのための「五月よ、みずみずしいバラは乙女の髪を飾る」(『オイリアンテ』より)による変奏曲・Op. 62-2(垂野鮎子さん) | 4. ウェーバー作曲 三重奏曲 Op.63, g-moll(酒井秀明さん、伊吹このみさん、佐藤千鶴子さん)
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チェリスト:佐藤千鶴子さん | アンコール:酒井秀明さん&伊吹このみさん |
プログラム 1.クーラウ作曲 ピアノのための「狩人の合唱」(『魔弾の射手』より)による変奏曲・Op. 49-3 Introduction, 2/4 Adagio molto sostenuto, D -Dur Thema ,2/4 Molto vivace, D-Dur I, II, III 上記と同じ IV 6/8 Andante, D-Dur V 2/4 Molto vivace, D-Dur VI, VII, VIII上記と同じ IX 2/4 Andantino, d-moll X 2/4 Allegro non tanto, D-Dur - Allegro assai - Allegro - Molto vivace 2.クーラウ作曲 フルートとピアノのための『オイリアンテ』の「ロマンス」による序奏と変奏曲 Op. 63 3.クーラウ作曲 ピアノのための「五月よ、みずみずしいバラは乙女の髪を飾る」(『オイリアンテ』より)による変奏曲・Op. 62-2 4. ウェーバー作曲 三重奏曲 Op.63, g-moll |
プログラム・ノート 石原利矩
「クーラウとウェーバー」
クーラウはデンマークで、ウェーバーはドイツ中心で活躍しました。二人の生涯を比べてみるといろいろな面で似ていることが挙げられます。1786年クーラウはドイツのユルツェン、ウェーバーはドイツのオイティーンで同年に誕生しています。そして、ウェーバーは39歳(1826年)ロンドンで没し、クーラウは46歳 (1832年)コペンハーゲンで没しており、死因が「結核」と言うことも似ています。二人とも音楽家の家系に属し、音楽史上ロマン派初期にあたります。
しかし個々の音楽環境は似ているとは言えません。ウェーバーの方が音楽の教育は早く行われ、師事した教師もミヒャエル・ハイドン、フォーグラーなど著名人がいます。クーラウが作曲で師事したのはハンブルク時代のシュヴェンケ一人です。生涯はウェーバーの方が波瀾万丈で多彩です。クーラウが作曲活動として出版の試みを最初に行ったのが1802年(16歳)ブラウンシュヴァイクのラテン語学校の学生時代です。これはブライトコップフ社に出版を依頼した作品(アリア?)のことで結果的には不成功に終わりました。これに対してこの時期のウェーバーはすでに初期の作品「6曲のフーゲッタ」も出版していて、最初のオペラさえ上演しており、なおかつ2曲目のオペラを作曲しています。二人の音楽への道のスタート時点はこのように違っています。ウェーバーの足跡を追ってみるとドイツを中心に中央ヨーロッパをかけ巡った感がするほどです。これは父親の冒険的、投機的な性癖に一因しています。3歳の時から約7年間、父親が率いる旅回りの劇団で子供のウェーバーが家族と共に移動したことは、後のオペラ作曲家としての素養を自然に体得し得た環境だったのでしょう。父親はモーツァルトの例を見て子供を「神童」に教育することを目論み、異母兄(25歳年上のフリドリン)にその指導を任せたことがありますが、できが悪く兄から「おまえは音楽家以外なら何の職業でもつくことができる」とまで言われたということです。しかし、その後ウェーバーが音楽史に残る作曲家となったことは父親の夢も実ったと考えてもよいでしょう。本論とは関係がありませんがモーツアルトの妻、コンスタンツェとはいとこ同士(父方の)という姻戚関係があります。
ウェーバーの音楽史上における一般の認識はオペラ『魔弾の射手』の作曲によりドイツ国民オペラの基礎を作ったと見なされていることです。これはクーラウがピアノソナチネの作曲家と言われることとよく似ています。一面だけを取り上げて規定されてしまったことです。ウェーバーの有名な曲を挙げれば、オペラ『魔弾の射手』を筆頭に『オイリアンテ』、『オベロン』、ピアノ曲の「舞踏への勧誘」、小協奏曲(ピアノとオーケストラ)、クラリネットのためのいくつかの作品などでしょう。しかし、これらは彼の全作品から見ればほんの一部分に過ぎません。その他のオペラ、劇付帯音楽、交響曲、ピアノ曲、歌曲、室内楽などは演奏されることが少ないこともクーラウとよく似ています。二人ともピアノ演奏に秀でていたことも同様です。その他に両者の類似点には次のようなことも挙げられます。
☆不注意により運命が左右された事故。
クーラウはリューネブルクで9歳半の時に右目を失う事故に遭いました。道路で転び持っていたビンが割れ目に突き刺さったのです。この傷の療養中にクラビコードがベッドの上にあてがわれ、それに熱中したあまり両親は彼を音楽の道を歩ませようとしたと言うことです。これは大きな方向付けです。
一方ウェーバーは20歳の時にワインと間違えて硝酸を飲んでしまった事件がありました。これは、彼の父親が銅版印刷の実験に使うものとして硝酸をワインのビンに入れていたからです。幸い友人の早期発見によって命は取り留めましたがそれまでの美声を失ったということです。これはウェーバーがブレスラウのオペラ劇場の改革に取り組んでいた時代で、すでに音楽家の道を歩んでいた頃です。しかしブレスラウの仕事も思うように行かなかった状況でこの事故に遭い、失意の内にブレスラウを去ることになりました。運命を左右したと言えます。
もう一つは二人とも火災に遭い作品を失ったことです。これはウェーバーが若い時でクーラウは晩年になった時です。ウェーバーの場合は12〜14歳の音楽修行中にミュンヘンで作曲したオペラ「愛とワインの力」、器楽三重奏、ソナタ、ピアノ変奏曲、歌曲、笑劇などを作曲の先生(Kalcher)の家に預けておいたものが先生の家の火災(説明が付かないのですが、作品をしまっておいた本箱だけが燃えた)で全て灰燼に帰してしまったのです。この事件に遭いウェーバーは作曲を断念した方が良いという「お告げ」だと考え「銅版印刷」の仕事に方向転換しようと父親と共にフライベルクに行くのです。この時点で彼がその道に進んだら後のウェーバーはなかったのですが、たまたま当地に巡業してきたシュタインベルク・オペラ団からオペラ『森の唖の娘』の作曲依頼を受け再び音楽に専念するようになるのです。
一方、クーラウは隣家の火災の類焼で全財産を失いました。45歳の時です。いくつかの未出版の作品は持ち出すことができましたが多くの自筆譜、手紙類の焼失はその後のクーラウ研究に多大な障害となりました。彼はこの火災が元で健康を害して、間接的に死に至ったと考えられています。(つい最近のことですが、クーラウの自筆譜が発見されたというニュースがブスク氏から届きました。詳しくはIFKSホームページをご覧ください)
二人の接点を調べてみると、1802年クーラウはブラウンシュヴァイクからハンブルクに来て音楽家の道を歩み始めた年、ウェーバーは上記のフライベルクから次に活躍するアウグスブルクに至る途中でハンブルクに滞在していた時期があります。1802年10月に最初の歌曲をこの地で作曲しました。時期が重なっているだけで二人の接点は見られません。二人が16歳の時です。
その時から18年後の1820年9月ウェーバーは、コペンハーゲンを訪れています。この時期クーラウはコペンハーゲンに住んでいましたが、残念ながら両者がこの時、巡り逢ったという記録はどこにもありません。ウェーバーがコペンハーゲンを訪れたのは演奏旅行のためであり、滞在中に会った人はシャル、シボーニ、フレゼリケ・ブルン、フレゼリクVI世などの名前が挙げられますがクーラウの名前は見られません。いとこのコンスタンツェは再婚相手のニッセンと共に、この時期コペンハーゲン住んでいましたがその情報もありません。すでにウェーバーは『魔弾の射手』を書き上げており、ドイツで初演はまだ行われていませんでしたが、序曲の初演はコペンハーゲンで行われました(手書きの譜面で)。
二人が互いに面識が無くとも、ウェーバーはクーラウの名前は知っていたのではないかと私は想像します。ウェーバーとフルート奏者のA.B.フュルステナウは親しい友人の間柄であり、ロンドンでのウェーバーの死の第1発見者はフュルステナウと言われています。このフュルステナウとクーラウは互いに知り合いであり、クーラウの作品39のフルートDuoはフュルステナウに献呈されています(1821年)。また、クーラウのドイツ旅行の際(1823年)、フュルステナウはコペンハーゲン演奏旅行のあとドイツへの帰り道に、クーラウと同道して同じ汽船に乗っています。あくまでも推測ですが、こんなことからウェーバーはフュルステナウ通してクーラウのことを聞いていた可能性はあります。
トラーネの伝記にクーラウの人となりを述べた個所にウェーバーに関係する次のような興味深い個所があります。---クーラウには野心などなく、愛想のいい人柄そのもので、小さな心遣いを大切にし、友人から手渡されたものは小さなものでも細心の注意を払って大切にした。また友人の意見は忌憚のない痛言でも受け止めて耳を傾けた。とある会話で、『魔弾の射手』をやっきとなってこき下ろしたところ、ある友人が、こう言った。「ウェーバーの全作品を否定するのは結構、詰まる所、こういう抜群の作品を書きさえすればいいんだよ」。クーラウはちょっと考えて、いつもの癖で襟巻きをいじりながら言った。「もっともなことですな」。----
作品上の類似点は『妖精の丘』序曲(1828年作曲)の最後に現れる国民的なメロディー「クリスチャン王は高きマストの側に立つ」の構成が、ウェーバーが1818年に作曲した「祝祭序曲」の最後に「God save the King」が現れるアイデアと同じであることをトラーネは指摘しています。
デンマークの文化が中央ヨーロッパに流出する事例は、逆の場合よりずっと少なかったことが、二人の関係にも当てはまるのかもしれません。
ウェーバーのフルート作品
ウェーバーがフルートのために作曲したものは非常に少ないのです。オリジナルとして目されるのは、本日演奏される作品63の三重奏曲とRomanza sicilianaの2曲だけで、後者はブレスラウのH. Kauffmann Zahnのために作曲された1805年12月24日の日付けがある自筆譜(小オーケストラ伴奏)しかありません。(もしかしたら本日のアンコールで聴けるかも?)
現在いくつかの作品はフルート用に出版されていますが、それは編曲によるものです。例えば6曲のピアノとフルートのためのソナタ(Zimmermann社版)は、初版はヴァイオリン伴奏付きピアノソナタ・作品10です。もう1曲、オイレンブルク社の変イ長調のフルートとピアノのためのソナタはピアノソナタ作品39の編曲(ウェーバーと同時代のA. B. Müllerによる)です。
それに反してクラリネットは恵まれています。協奏曲2曲、小協奏曲1曲、クラリネット五重奏曲1曲、ピアノとクラリネットの二重奏曲1曲、ピアノ伴奏の変奏曲1曲などです。この内のいくつかはミュンヘンで知り合ったクラリネット奏者Bärmannのために書かれました。フルートの名手A.B.フュルステナウと親交があったのにもかかわらずフルート作品が少ないのは残念です。
ウェーバーの足跡を追ってみると
オイティーン(1786-1787)生誕地
1789〜1796父親が結成した旅回りオペラ劇団(家族を核にして構成されていた小規模のもの)の巡業各地
ニュルンベルク(〜1791〜)
ヒルトゥブルクハウゼン(1796-1797)Heuschkelに師事
ザルツブルク(1797-1798) Michael Haydnに師事、 母親死亡1798.3
ミュンヘン(1798-1800) Joh. Nep. Kalcherに師事
フライベルク(1800-1802)オペラ『唖の森の娘』上演・不評に終わる。不評に対する新聞紙上の論争(少年ウェーバーのオペラ不評は劇場側の不備にあるとして父親が訴えたもの=知識層の反駁を買い、いたたまれず転居)
ハンブルク1802.10 初めての歌曲作曲(クーラウがハンブルクに来た最初の年)
アウグスブルク(1803)(5ヶ月)オペラ『ペーター・シュモルと隣人』上演
ウイーン (1803-1804)Voglerに師事
ブレスラウ(1804-1806)カペルマイスター、硝酸誤飲
ヴュルテンベルク/シュトゥットガルト(1806-1808)、ピアノ曲、カンタータなど作曲、ヴュルテンベルクでは宮廷で秘書として仕える。(1808-1810)、王子の音楽指導、宮廷の司書の仕事、文学に親しむ。歌曲多数作曲。知識人たちとの交友。Danziと巡り逢い強い影響を受ける。オペラ『シルヴァーナ』作曲(1810.2)
1810.2.26公費悪用の嫌疑で父親と共にヴュルテンベルクから追放される。
マンハイム(1811-1812)ハイデルベルク楽旅、多数の楽旅、
1810.4ダルムシュタット(1年滞在)Vogler (1807年〜当地のカペルマイスター就任)に再度師事(マイアーベーアと一緒に)。オペラ『アブ・ハッサン』作曲を始める(1810.11)。
1811楽旅(2/11):フランクフルト、ギーセン、アシャフェンベルク、ヴュルツブルク、バンベルク、ニュルンベルク、アウグスブルク、ミュンヘン(1811.3)。ミュンヘンでクラリネット奏者ベールマンと知り合いクラリネット曲が生み出される。
1811.8スイスへ向かう、ラーフェンブルクで逮捕(ヴュルテンベルクの事件による)国外追放。コンスタンツ、シャフハウゼン、ラインファル、ヴィンタートゥール、チューリッヒ、1811.10ミュンヘンに戻る。
1811.12ベールマン(クラリネット奏者)と楽旅:プラーハ、ライプツィッヒ、ゴータ、ワイマール、ドレスデン、1812.3ベルリン
ベルリン(1812.3〜1812.8)オペラ『シルヴァーナ』上演、文筆活動を行う。
ゴータ(1812.8〜10)シュポア、メトフェッセル、クラリネット奏者ヘルムシュテッテ等と知り合う。
ライプツィッヒへ向かい出発(1812.12)1313.1ゲバントハウスで演奏会。ドレスデン、プラーハ、ウイーン、イタリアまでの楽旅を企画。
プラーハでオペラ劇場の監督として就任(予定の残りの旅行を放棄)、
一時的にウィーンのオペラ劇場の監督、後の配偶者カロリーネ・ブラント(歌手)を見そめる。胆汁熱の病に患いプラーハに戻る。
プラーハのオペラ劇場の改革
1814中頃 仕事疲れのため療養地リープヴェルダ(3週間)後ベルリンへ。
同年秋ベルリンでオペラ『シルヴァーナ』上演。ワイマール、ゴータ、アルテンベルク経由プラーハに戻る。
1815.6〜9ミュンヘン滞在、作品多数作曲。再びプラーハへ戻る。
1816.3 プラーハ劇場辞任。
1816.12〜1817.9 ドレスデンの劇場の音楽監督就任
1817夏『魔弾の射手』着手〜1820.5完成
1817.11.4カロリーネ・ブラントと結婚
1818. 三重奏曲 Op.63作曲(本日の演奏曲)、
1819.舞踏へ勧誘Op.65 作曲
1820.戯曲『プレチオーザ』付帯音楽着手
1820.6~11楽旅:ライプツィッヒ、ハレ、ゲッティンゲン、ハノヴァー、ブラウンシュヴァイク、ブレーメン、オルデンブルク、ハンブルク、リューベック、キール、コペンハーゲン。
1821.6ベルリン『魔弾の射手』初演、ヨーロッパ中を席巻
1822.2『オイリアンテ』作曲のためウイーンへ。3月ドレスデンに戻る。8月作曲完成。10月上演のためウイーンへ。11.5ドレスデンに戻る。
『オイリアンテ』は『魔弾の射手』のように人気を博さず、この時期から結核の兆候が強く現れ創作力が減衰した。
1825年オペラ『オベロン』作曲着手
1826.3.6パリ経由でロンドン着、4月『オベロン』完成、4月12日『オベロン』初演
1826.6.4〜5ロンドンにて客死
1844年、遺骨がドレスデンに移され埋葬される
クーラウに比べて早熟で早世であったウェーバーの波乱に富んだ生涯はこの紙面では書き尽くせませんが、その業績から見ればその生涯は決して短かったとは言えません。オペラ『魔弾の射手』でドイツオペラの礎を作りワーグナーの楽劇に発展した流れは音楽史上大きな功績と見なされています。
楽曲解説
1.クーラウ作曲 ピアノのための「狩人の合唱」(『魔弾の射手』より)変奏曲・作品49-3 (出版年1822)
クーラウには独立したピアノのための変奏曲は36曲あり、その他にソナタの一つの楽章として5曲あります。ピアノの変奏曲の主題に用いられた作曲家で一番多いのは13曲のウェーバーです。(『魔弾の射手』7曲、『プレチオーザ』3曲、『オイリアンテ』3曲)。何故こんなに多いのでしょうか?それは出版社のローセによる注文があったからなのです。オペラ『魔弾の射手』は、コペンハーゲンでの初演は1822年4月26日です。1832年(クーラウの没年)までには45回の上演記録があります。かなりの人気です。因みに『プレチオーザ』は35回です。全般にローセから出版されたものは当時の流行を追ったものが多いのです。『魔弾の射手』の人気もコペンハーゲンで高まり、ローセはいち早くクーラウに変奏曲の依頼をしています。その結果作品48、第3幕、Nr.14「花嫁に付き添う乙女たちの合唱」の主題による変奏曲が書き上げられました。さらに引き続きローセは『魔弾の射手』の主題による6曲の変奏曲を委嘱しました。こうして出来上がったものが作品49の6曲です。
作品49第3番のこの曲はオペラ『魔弾の射手』の中で最も有名な、「狩り」を讃美する「狩人の合唱」(第3幕Nr.15)を主題にしています。静かな森の中を思わせる序奏に続き、「狩人の合唱」の主題が奏され10の変奏曲で構成されています。
2.クーラウ作曲 フルートとピアノのための『オイリアンテ』の主題による序奏と変奏 作品63 (出版年1825)
バロック、古典派時代は音楽史上重要な作曲家にはフルート作品が多いのですが、ロマン派時代になると著名な作曲家はフルートから離れていった傾向が見られます。この時代フルート作品が無いわけではありませんが、多くは楽器の特性を強調するあまり技巧に走り内容が貧弱なものが多くなりました。そんな中に特に光っているのがシューベルトの「しぼめる花」変奏曲とクーラウの「オイリアンテ」変奏曲です。
主題はオペラ『オイリアンテ』第1幕Nr.1 騎士アドラーによって歌われるロマンス「Unter blüh'nden Mandelbäumen、花咲く巴旦杏樹のもとで」で、
序奏と6つの変奏曲で構成されています。
3.クーラウ作曲 ピアノのための「5月の歌」(『オイリアンテ』より)変奏曲・作品62-2 (出版年1824)
主題は『オイリアンテ』第3幕、Nr.21のベルタ(村娘)が歌う「五月よ、みずみずしいバラは乙女の髪を飾る」の旋律です。序奏と8つの変奏曲で構成されています。特に7番目のAndanteは斬新な転調が含まれ印象的です。
この曲(3曲)もローセ社の注文により作曲されたものですが、オペラ『オイリアンテ』はクーラウの時代にはデンマークでは1度も上演されていません。有名でない曲を何故ローセが作曲依頼したかについて、ブスク氏は「恐らくピアノスコアなどで知られていたのだろう」と言っています。
4.ウェーバー作曲 フルート、チェロ、ピアノのための三重奏曲 作品63 (出版年1820)
今までのIFKS定期演奏会ではクーラウ作品しか演奏されませんでした。クーラウ作品以外で登場したのは、この曲が初めてのものです。期せずして今回のプログラムで2曲目のクーラウの作品と同じ作品番号です。
1819年7月25日ドレスデン-ホスターヴィッツにて完成。しかしこの時点で第3楽章は入っていませんでした。第3楽章に組み込まれた「羊飼いの嘆き」はプラーハ時代に作曲した「チェロとピアノのための変奏曲」(1813年10月16日作曲---この曲は失われています)の主題が差し込まれたのではないかと、ウェーバーの研究者Jähnsはかなり高い確率性で指摘しています。その曲の被献呈者はこの三重奏曲を献呈された、プラーハの医師でウェーバーの友人のフィリップ・ユング(チェロ演奏に秀でていた愛好家)という同一人物です。彼はウェーバーのプラーハ時代のかかりつけのお医者さんでした。1820年にベルリンのシュレジンガー社より出版された4楽章のこの曲は、ユングに献呈されているところを考えるとその可能性はあり得ます。
もう一つの推測としてウェーバーは1815年3月23日付けの日記に「ユングの誕生日のためにFlöte, Viola und PfteのためにAdagioを編曲し、25日贈呈して午餐後に演奏した」と書いています。Violaと書かれているのはViolc (Violloncello - ユングの楽器)の省略形の間違いだとするものです。この曲が三重奏曲の第3楽章と同一曲であることは楽器編成が同じであることからより可能性が高いと推量できます。
しかし、なぜこの時にフルートが加わったのか?という疑問に関して次のような裏付けが挙げられます。それは上記の時期、プラーハにフュルステナウ親子と有名なチェリストDotzauerが滞在していて、ウェーバーは彼らと一緒に銀行家のクラインヴェヒターの家でしばしば演奏したことがあるからです。
こんなことからJähnsは現在の4楽章の三重奏曲の成立過程を説明しています。
この曲は初期ロマン派のフルートを伴う室内楽の中で、その音楽的な完成度により確固たる地位を占めている作品です。
第24回IFKS定期演奏会
「クーラウとウェーバー」
日時:
2013年6月13日(木)19:00〜
会場:ヤマハ銀座店・6階コンサートサロン (チラシのピアノサロンはミスプリントです。訂正してお詫び致します。)
出演:
酒井秀明(フルート)
伊吹このみ(ピアノ)
佐藤千鶴子(チェロ)
垂野鮎子(ピアノ)
曲目:
1.クーラウ作曲 「魔弾の射手」より「狩人の合唱」変奏曲 作品49-3(ピアノ)本邦初演
2.クーラウ作曲 「オイリアンテ」 変奏曲 作品63 (フルート、ピアノ)
〜休憩〜
3.クーラウ作曲 「オイリアンテ」の主題による変奏曲 作品62-2(ピアノ)本邦初演
4.ウェーバー作曲 トリオ(フルート、チェロ、ピアノ)