第9回 IFKS定期演奏会(報告)
12月20日、第9回IFKS定期演奏会が行われました。5分遅れの19:05開演、21:05終演となり丁度2時間の演奏会でした。12月末のウイークデーでお忙しい方も多く会員の方々の出足が今ひとつ伸び悩みました。クーラウの室内楽は数こそ少ないのですが、今回のプログラムに登場した作品はいずれもしっかり書かれたもので、聴衆はクーラウの作曲家としての認識を新たにされたことと思います。ピアノ変奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ四重奏曲は「本邦初演」だったと思います。
・・・「と思います」というのは「初演」かどうかは明治以降の過去の演奏会記録をひもとかねばならなず、確認が取れないからです。しかし「初演」の確率が高いものと思われます。当日は長時間の演奏会となりましたが、緊張感の溢れる演奏が続き、お客様はトッパンホールのゆったりした椅子に身をゆだね、しばし年の瀬の忙しさを忘れクーラウの音楽を堪能しました。おかげさまで「クーラウ・ルネサンス」(ルネサンス = 復活、復興)の副題に相応しい演奏会となりました。ご来場の皆様、有り難うございました。
プログラム・ノート「クーラウの室内楽」
クーラウはピアノソナチネで有名です。残念ながら・・・
クーラウは音楽史の中でもさほど重要な作曲家として見なされていません。ピアノの初心者のためのソナチネ、フルートの愛好家のための多数のフルート曲を作曲したという見方が大方の認識です。
しかし、有能なオペラ作曲家としてのクーラウは今年の6月4日東京文化会館大ホール行われたオペラ『ルル』で証明されました。
クーラウは当時の大作曲家と同様、いろいろな分野の作品を残しています。器楽曲、声楽曲、オペラなどです。
器楽曲ではピアノの作品が最も多く、次にフルート曲、室内楽が続きます。
本日のプログラムは室内楽の粋を集めました。
●ピアノのための変奏曲、「やあ、コフテを着たラスムス・ヤンセン」Op.15はノールウエーの古い民謡をもとに作曲されたものです。
ライプツィッヒのブライトコップフ・ヘルテル社版の初版楽譜(1816)のタイトルページには
Variations
Pour le Pianoforte sur un ancien air Norwégien "God Dag Rasmus Jansen me din Koste" dédiés A son ami C. Kornemann par Frédéric Kuhlau |
とあります。
しかし、この中には2つのミスがあります。
KosteはKofteのミス
献呈を受けたKornemannはHornemannのミスです。
Kofteは上着の一種です。
(文字化けしていますね。これでは何のことかわかりにくいですが「?」の個所はフランス語のeにアクサン・テギュが付いたものとお考え下さい。)
Hornemann, Christian(1765~1844)は画家でクーラウのパステルの肖像画を描いた人で、クーラウの弟子で作曲家Hornemann, J. O. E(1809~1870)のお父さんです。本日のプログラムの表紙にあるもので、本物はカラーですが諸般の事情で一色となっています。なお、この絵はデンマークの音楽史博物館が所蔵しています。
この民謡の歌詞は1821年出版P. Rasmussen と R. Nyerup共著の「デンマークの歌選集」の中に含まれています。「ラスムス・イエンの結婚」と題するこの曲の歌詞は対話形式で話が進展するもので28番まであります。Morten Raanが新しいKofteを着たRasmus Jaen(=Jansen)に尋ねます。新調した靴とズボンを身につけてどこへいくのかねと。次の歌詞はJaenが答えます。結婚の贈り物を持ってるのだが良い娘はいないかねと。それに対して RaanはPerder Jaenの娘Ludseがいい、あの娘はお前さんを好いていると薦めます。次にJaenは結婚がうまく運べばお礼にご馳走するとRaanに約束します。次はJaenがPerder Jaenのところに出かけ自分の財産を述べてLudseを嫁にもらえないかと交渉します。こうしてめでたく2人は結婚式を挙げることになります。その後の歌詞は結婚式の食事、歌や踊りなどの描写が延々と続きます。歌詞の内容が陽気なものに対してメロディは短調で淋しい感じです。
1860年出版A. P. Berggreen著、Folke-Sange og Melodierの中にある"Rasmus Jaens Frieri" 「ラスムス・イエンの結婚の贈り物」の旋律は9小節から成るものでクーラウの12小節の旋律とやや異なります。
(Jaenのaeはデンマーク語のアルファベットのaとeが繋がった文字とお考え下さい)
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Op.15は次のように構成されています。
主題(4/4拍子、a moll : Moderato con espressione)
変奏1(4/4拍子、a moll : Agitato)
変奏2(4/4拍子、a moll : Legato, un poco staccato)
変奏3(4/4拍子、a moll : Con affetto)
変奏4(4/4拍子、a moll : 記載無し)
変奏5(6/8拍子、F dur : Larghetto, sostenuto assai)
変奏6(4/4拍子、a moll : Allegro con molto fuoco)
変奏7(4/4拍子、A dur : Moderato assai)
変奏8(4/4拍子、A dur : Brillante, risoluto)
終結部(4/4拍子、F dur→a moll : Tempo I)
●弦楽四重奏曲 Op.122
クーラウは弦楽四重奏曲を1曲残しています。1832年2~3月完成、3月12日に没していますから、死の直前までこの作品に取りかかっていました。そもそもクーラウは弦楽四重奏を何曲か作曲するつもりでした。
1829年8月4日、ライプツィッヒのペタース社のベーメ宛の手紙
「今度、またライプツィッヒに行くときは私の最初の弦楽器のためのカルテット3曲を持って行きます。再びあなたのすてきな別荘で試奏できるでしょう」
これは1829年のドイツ旅行の際、ベーメと知り合いになり彼の別荘でOp.103のフルートカルテットの試奏をした背景があります。その際ベーメから弦楽カルテットの作曲の打診、依頼などがあったと思われます。
1830年4月10日のベーメ宛の手紙
「新作のピアノカルテットの出版がうまくいかなかったように、弦楽カルテットも同様になるのではないかと恐れてこの仕事を引き延ばしていました。しかし、あなたのお手紙のお勧めで来冬にはこれに打ち込むつもりです。」
新作のピアノカルテット(1829年作曲)とはOp.108 g-mollの第3番のことで、この曲は出版がなかなか実現せずにクーラウの死後やっとペータース社から出版(1833年)されました。
1831年7月18日、パリの出版社、ファランクに宛てた手紙
「私はこの冬は大作に取りかからなければなりません。当地の音楽愛好家の富裕な商人から6曲の弦楽四重奏曲を依頼されました。報酬も莫大で出版も自ら引き受けてくれます。私も以前からこのジャンルの作品を作曲したいと思っていましたので喜んで契約をしました。」
1832年2月7日パリの出版社、ファランクに宛てた手紙
「今、弦楽四重奏曲を作曲しているところです。この仕事は恐らくあと3ヶ月以上はかかるでしょう。」
1832年2月28日、ケーニッヒベルクのW. Scherres (商人)宛の彼の最後の手紙
「私はいくつかの弦楽四重奏を書かなければなりません。今、その仕事に追われています。この仕事が終わり次第すぐにもフルート五重奏に取りかかります。」
Scherresはクーラウにフルート五重奏の作曲を依頼してきた人です。この手紙を書いた日から二週間後にクーラウは亡くなりました。大病後の衰弱から快復して作曲の意欲が盛り上がった時期です。本人の意志とは裏腹に死が訪れてしまったのです。
この弦楽四重奏はその内容からクーラウが心血を注いだ作品と考えられます。まるで新境地を開いたかの感があります。もし、クーラウがもう少し長生きをしたら室内楽のレパートリーに素晴らしいものが残ったことでしょう。
この曲はクーラウの死後ペータース社より出版(1841年)されました。
第一楽章(イントロダクション4/4拍子a moll : Andante sostenuto、4/4拍子a moll : Allegro assai, poco agitato)
第二楽章(3/8拍子F dur : Adagio con espressivo)
第三楽章(スケルツォ3/4拍子a moll : Allegro assai)
第四楽章(フィナーレ2/2拍子A dur : Allegro molto)
●フルート・三重奏曲 Op.90
クーラウには7曲のフルート三重奏曲があります。Op.13(3曲)、Op.86(3曲)と本日のOp.90(1曲)です。クーラウはいろいろな出版社に自らの作品の売り込みをしています。ローセ社(デンマークの出版社、クーラウとは懇意)の紹介でショット社との交渉の橋渡しを得て、1826年10月14日の出版社ショットに手紙を書いています。「どんな作品が良いのか、楽器は何が良いか」等を問い合わせています。その際いろいろなジャンルの手持ちの曲が述べられていますが、追伸にフルート三重奏曲が含まれています。ただし、「後で」と但し書きがあります。ということはこの時点ではまだ作曲をしていなかったと考えられます。
ショット社の返事(クーラウ宛の手紙類は殆ど火災で焼失)がいかなるものであったかは次のクーラウの手紙で分かります。
1827年2月2日ショット社宛の手紙
「フルート付きのピアノソナタをお送りします。この作品がご希望取りのものであることを祈ります。その他のご注文の曲は出来次第お送りします。」ショット社はフルートの曲しか注文しなかったのです。なぜなら結局ショット社からはフルートソナタOp.85(1曲)、フルート二重奏曲Op.87(3曲)と三重奏曲Op.90(1曲)の計5曲しか出版されなかった事実から判明します。
1828年にショット社から出版された4楽章からなるこの作品はフルート三重奏曲の中で最も優れたものと言えるでしょう。
第一楽章(3/4拍子h moll : Allegro non tanto)
第二楽章(スケルツォ3/4拍子h moll : Allegro molto)
第三楽章(2/4拍子G dur : Adagio)
第四楽章(フィナーレ2/4拍子h moll : Allegro poco agitato)
●ピアノ四重奏曲 Op.50
クーラウのピアノ四重奏曲は3曲あります。
第1番はOp.32のc-moll(1821年ブライトコップフ社),
第2番はOp.50のA-dur(1823年ジムロック社),
第3番はOp.104 g-moll(1833年ペータース社)です。
全般的にクーラウのピアノ四重奏曲はピアノ中心の様相を呈しています。特に第一番はピアノ協奏曲の室内楽版といった趣があります。
第2番がどうのような経緯で書かれたかはつまびらかではありません。この曲は当時、サロンでの演奏会にしばしば登場していました。国立美術館に所蔵されている当時のサロンの演奏会の絵(ピアノ四重奏曲演奏、ピアノを弾いているのはワイセ、壁にはクーラウの絵-前述のHornemannの肖像画-が掛かっている)はこの曲の演奏の風景だと言われています。(Wilhelm Marstrand 画) !
第一楽章(3/4拍子A dur : Allegro)
第二楽章(3/4拍子F dur : Adagio ma non troppo)
第三楽章(スケルツォ3/4拍子a moll : Presto)
第四楽章(フィナーレ6/8拍子A dur : Allegro di molto)
クーラウの室内楽は数の上から決して多くはありません。弦楽器と一緒の作品は上述の弦楽カルテット1曲、ピアノカルテット3曲、Op.51の3曲のフルート五重奏曲しかありません。
その理由は出版社がそれを依頼しなかったからです。
「フルート曲はどの出版社もクーラウに対して門戸を開いていた」とトラーネの「クーラウ伝記」に書かれています。
フルートを伴った室内楽ならばどの出版社からもすぐさま受け入れられたことでしょう。晩年の手紙にはそのジャンルでの作曲を意図している旨が述べられていますが残念ながらそれは実現されませんでした。作品数は少くても本日のプログラムからクーラウが「ソナチネの作曲家」だけではないことがご理解頂けることと思います。(石原記)