IFKS第10回定期演奏会のプログラムノート

クーラウ・ルネサンス Part2
《「フルートのベートーヴェン」!?》
「クーラウはフルートのベートーヴェン」というニックネームの検証

プログラム解説
(当日のプログラムより)


今回はいつもプログラムノートを担当している石原利矩氏が2008年オペラ『ルル』再々演の準備でデンマークに行かなければならなくなり、それを書く暇がなく「あとはまかせるよ」と言って出かけてしまいました。プログラム編集部としては困ってしまい急遽、IFKSホームページで皆様からの質問に答えて下さっている「トッシー先生」に伺うことにしました。最近、質問者が少なくなってそろそろ廃業しようかなとこぼしていらしたので、この件でお願いしたところ快く引き受けて下さいました。どうぞ、お読み下さい。(編集部)

トッシー先生の解説

●トッシー先生こんにちは。今日はよろしくお願いします。
●「いやあ、うれしいね。まだ私のことを覚えていてくれていたんだね。最近、質問がなくてね、そろそろ引退を考えていたんだよ。それにしてもホームページの管理人は無責任だね、こんな大事な時期に逃亡しちゃうなんて。どんな質問があるのかちょっと心配だけど始めようか」

●クーラウは何故フルートのベートーベンと呼ばれているのですか?
●「最初から核心をつく質問ですなあ。音楽の世界にはニックネームを持った作曲家がいるね。ハイドンを「交響曲の父」、シューベルトを「歌曲の王」、ショパンが「ピアノの詩人」などと呼ばれていることは有名だ。親しみが湧いて覚えやすい。ただし一面しかとらえていない場合があるね。本人がそれを聞いて納得するかどうかはわからない。クーラウの場合はベートーヴェンとの類似点が多くあることが挙げることができる。様式の上でベートーヴェンと同時代、初期ロマン派、器楽作品における形式はベートーヴェンが確立したソナタ形式を踏襲している。フルート作品を沢山書いた作曲家でなおかつベートーヴェンのように書法がしっかりした作曲家であるというところからこのニックネームがついたのだろうね。」

●だれがそう呼んだのですか?
●「それをはっきり言える人はいないんじゃないかねえ。人の噂など誰が言い出したか特定するのはむずかしいからね。でもねこんな資料があるんだよ。1988年ハンス・ペーター・シュミッツ氏は「クラシック・ロマン派のフルート奏法」の中の序論14ページで「---フルートのベートーヴェンと言われたフリードリッヒ・クーラウは当時のフルーティストから大いに賞賛された---」と書いている。
1951年、レオナルド・デ・ロレンツォの「My complete story of the flute]の中の「Thumb-nail biographes]の項目の247ページに「フリードリッヒ・クーラウ(1786ー1832)ドイツのフルーティスト、沢山のオペラと同様に多くのフルート作品の作曲家。デンマークの音楽監督。クーラウはフルートのベートーヴェンと呼ばれている。」とある。
音楽事典MGG(1951)のクーラウの項目の執筆者ラインホルト・ズィーツは、{「---進歩的な芸術を愛する者のためにふさわしく、今日においても尚演奏されていて、そのほとんどが注文によって作曲されたクーラウのフルート作品は、彼をして(いくぶん軽率な言い方かも知れないが)フルートのベートヴェンと呼ばしめている。---}
それ以前の著書ではフィッツギボン(H.Macaulay Fitzgibbon)の「フルートの物語」(The Story of the Flute) が挙げられる。この本は、1914年ウオルター・スコット社から出版された音楽の物語シリーズ(The Music Story Series)の中の一冊で, その本の第10章「フルート音楽」(105ページ)には次のように書かれている。
---「最も偉大なフルート奏者の作曲家はクーラウであった。彼の古典派の作品は、当然のこととして彼に「フルートのベートーベン」と言う名誉あるタイトルを与えた。彼の多くの作品は、疑いもなくこの偉大な巨匠の影響を示している。それ(「フルートのベートーベン」と言われること)は、全く彼にふさわしい事と言えよう。」
フィッツギボン以前に、誰がそう言ったかについては今のところ私は知らないけどね。」

●それにしてもクーラウのことをフルーティストと言っている人が多いんですね?
「クーラウがフルーティストだったいう誤解はクーラウが生きていた時代からあったんだよ。当時の音楽事典にそう書かれていたから仕方がない。これが今世紀までも引き継がれているというのはおかしな話だ。クーラウ協会の会員に知ってもらい広めてもらうんだね。ついでに話しておくけど「フルートのベートーベン」と言われた人が他にもう一人いるんだよ。ガブリエルスキーというフルーティストだ。今日の最後の曲、フルート・カルテットの被献呈者だ。クーラウとどういう関係にあったかは歴史の闇に葬られている。ただし、大いなる推論としてこの曲の初演で第1フルートを吹いた人物がガブリエルスキーではなかったかということだ。」

●どうして大いなる推論なのですか?
『クーラウ伝』を著したトラーネが書いている。1829年、クーラウがライプツィッヒ滞在中に彼の新作の4本のフルートのためのカルテットを聴くために出版社のベーメ(ペーター社)に招かれた。その時第1フルーティストがクーラウとフルートに関する細かいテクニックについて話し合いを始めた。そして彼は、クーラウがフルーティストでないと知った時、驚きのあまり我に帰ることが出来なかった。彼は全くそれを信じようとしなかった。」というものだ。ガブリエルスキーは当時ライプツィッヒにいた。この試奏会の第1フルーティストがガブリエルスキーだったとはどこにも書いていない。だがね、クーラウが自分の作品を献呈する場合出版を有利に運ぶようにする場合がある。ガブリエルスキーの名前は知名度があった。それに4人のフルーティストを集めたのはこの曲を出版した出版社の社長ベーメだ。必然的にこの作品がガブリエルスキーに献呈されてもおかしくはない。これはあくまでも私の推論だがね。ちょっと話が横道にそれてしまったようだ。ベートーヴェンの話だったね」
クーラウとベートーヴェンにはどんな共通点があるのですか?
「そうだね、私生活においては二人とも生涯独身だったなんてことも挙げられる。ベートーヴェンには女性問題が沢山あるが、クーラウの場合は殆どないね。初恋の人に振られてそれ以来結婚しなかった。いや、ごめん、相違点を挙げてる暇はない。肉体的には片や難聴、片や右目の喪失という負い目を負っている。甥の養育に関しても同様だ。ベートーヴェンはカールという弟の息子を養育した。クーラウは兄ゴットフリートの息子、ゲオルク・フレデリックを引き取りピアニストに仕上げた。」

●どちらが年上なのですか?
●「ベートーヴェンは1770年生まれ、クーラウは1786年だ。年齢ではベートーヴェンが16年先輩だ。クーラウはベートーヴェンの後を追った作曲家だ。先輩の作品に影響を受けていることははっきりとしている。クーラウはベートーヴェンを尊敬していて表敬訪問もしている。」
表敬訪問ということはクーラウとベートーヴェンは会っているのですか?
「そうだよ。1825年9月2日ウイーン郊外のバーデンでのことだ。昨年、クーラウ詣りツアーでクーラウ協会の人も大勢そこを訪ねたということだ。」

●そこで何が行われたのですか?
●「酒盛りさ。クーラウは大ののんべいで有名だ。ベートーヴェンは療養中といえどもこのときばかりはハメをはずしたらしい。彼は遠来の客をもてなすためクーラウ一行を引き連れて近くの廃墟を案内した。この廃墟はトルコ軍がウイーンを攻めたとき焼き払ったものと言われている。それが現在も廃墟のままあるんだよ。ベートーヴェンにとっては散歩のつもりが、彼についていった一行には厳しい行程だったようだ。クーラウ協会の面々も同じコースをたどったそうだけど苦しかったそうだ。」

●散歩して酒盛りをしただけですか?
●「そう言われればもともこもない。このとき何が行われたかはベートーヴェンの会話帳にその断片が残っている。でもその時の会話帳は後の研究者によって大幅に削除されてしまったようだ。残っている行間の中からカノンのやりとりが行われたことは読み取れる。ベートーヴェンは酔っぱらって何を書いたか覚えていなかったので翌日改めてクーラウにカノンを進呈したということだ。これは「K hl nicht lau生ぬるくなく、冷やして」という歌詞でワインの飲み頃を意味したものだ。クーラウの名前をもじっているところにベートーヴェンのウイットを感じる。だけど音楽はちょっと陰気だね。」

●クーラウは「モデル(借用)テクニックが得意」と言われていますが、これはどういうものなのでしょうか
●「良い質問だ。借用とは真似ることだ。様式や形式を真似してもこれは誰にも文句を言われない。モーツァルトだってベートーヴェンだって前時代の様式や形式を踏まえて自らの作品を生み出している。みんな前時代の真似から始まっているのだ。これは人類の限界というか宿命というか、こうして世界は発展してきたのだから仕方ない。クーラウは真似することがうまかった。オペラを見れば全てジングシュピール様式で書かれている。この様式を用いたからと言って盗作とは言われない。クーラウの器楽曲のソナタ形式はまさにベートーヴェンが完成したと言われるソナタ形式で書いている。形式を真似しても誰も文句は言わない。ベートーヴェンの「英雄」交響曲がモーツアルトのオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』の主題とそっくりだがこれは誰も文句を言わない。これは真似したとしても中身が全く違うものに作られているからだ。クーラウのメロディにはモーツァルトやベートーヴェンを彷彿とさせるものがある。もしかして真似したのかも知れない。ベートーヴェンが文句を言われないようにクーラウも文句を付けられない。それはクーラウのスタイルになっているからだ。」

●クーラウはベートーヴェンの作品から借用しているのですか?
●「ああ、いっぱいあるね。ウイーンに初めて行った年が1821年だ。この前後の作品に特に顕著に見られるね。今日のプログラムにある作品32(作曲1820~21)のピアノ・カルテットの第一楽章の第一主題はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番に非常によく似ている。調性も同じハ短調だ。第一主題は和音構成も酷似している。第二楽章は悲愴ソナタの第二楽章に似ている。作品33(ヴァイオリン・ソナタ=作曲1821年頃)は今日のプログラムにあるGrand Duoの原曲に当たる。この冒頭のピアノのメロディは今日の最初の曲「ウズラの鳴き声」の中に出てくるパッセージにとてもよく似ている。この部分は両者ともヘ短調だ。作品46-1のピアノソナタの第一楽章のアレグロのテーマは悲愴ソナタの第3楽章と似ている。作品88-3の第一楽章の第一主題は吹き出してしまうほど、まるで『エリーゼのために』を聴いているみたいだ。しかも両者ともイ短調だ。」
変奏曲の主題を他の作曲家から借用することをクーラウはしているのですか?
「他の作曲家の主題を使うことは借用とは言わない。これはモーツァルトだって、ベートーヴェンだって正々堂々と行っている。しかし使うときはちゃんと出典を明記している。クーラウだって同じだ。クーラウが用いた作曲家は沢山いる。モーツァルトを初め、ベートーヴェン、ウェーバー、ロッシーニなどが多いね。民謡も取り入れている。民謡の取り入れ方の巧みさは『妖精の丘』に見られる。その序曲を聴いてご覧。どこでそれが使われているかまるでわからないように全体の中にとけ込んでいる。そうそう、この序曲の終わりの部分にはデンマークの王様(クリスチャン四世)のメロディーが使われている。これは現在もデンマークの第2の国歌のような扱いを受けているものだ。祝祭的な催しには『妖精の丘』の序曲が演奏されることが多いらしい。そういえば、最近デンマークで新しいオペラ劇場が完成したのだけどそのこけら落としにこの曲が演奏されたんだよ。」

(編集部、軌道修正を試みる)ベートーヴェンの主題はどんな曲に用いられているのですか?
●「そうだった。また脇道にそれたようだ。今日のテーマはベートーヴェンだったね。クーラウが用いたものは全てがピアノ曲用だ。2度目のウイーン旅行(1825年)の帰国後に今日の最初の曲、作品75の「ウズラの鳴き声」の変奏曲、作品76「人生の幸せ」による変奏曲、作品77「あこがれ」による変奏曲という風に続き、3曲ともピアノ連弾曲にしている。晩年(1831年)の曲で作品117はピアノのための3曲のロンドレットと題して3曲ともベートーヴェンの歌曲を用いている。」
今日のコンサートの副題としてクーラウは「フルートのベートーヴェン」?!となっていますが、トッシー先生はそれが当たっていると思われますか?
「ニックネームが付くことは注目されている証拠だ。しかし、それが的を得ていなければ失礼に当たる。フルートの世界ではニックネームを付けられている作曲家がいる。ヨアヒム・アンデルセンは「フルートのショパン」、ドゥメルスマンは「フルートのサラサーテ」などがある。しかし、こういう呼び方が逆転しないところに悲しさがある。ショパンが「ピアノのアンデルセン」と言われないことを考えてごらん。これはどちらがビッグネームかということと関係している。そう言うことから考えるとクーラウの場合ベートーヴェンの偉大さがまず先にきていることがわかる。これをクーラウが聞いてどう思うかはわからない。でもね、クーラウはベートーヴェンを尊敬している人だ。光栄だと思う確率が高い。しかし、クーラウが最も情熱を注いだものはオペラだ。オペラの世界でそんなニックネームがついた方がうれしいことかも知れない。例えばロッシーニを「イタリアのクーラウ」とかウェーバーを「ドイツのクーラウ」とかだ。今日のコンサートをきいてまるでベートーヴェンの曲のようだと思われたら多分そう言われても仕方がないことだ。しかし、クーラウでなければ書けなかったものを感じ取ることも大切なことだ。」

●それでは今日のプログラムの曲について教えて下さい。先ず、最初の曲「ウズラの鳴き声」についてお願いします。
●「プログラムノートなんてのものは演奏会の間に読めるものが最良だ。あまり、長すぎると消化不良になっちまう。簡単に述べてあとはどっかの参考書を読んでもらえればそれでよい。だけど初演ともなれば曲について知っている人は少ない。クーラウの曲となればもっと難しい。そんな参考書が世間にないからだ。だから敢えて話してみよう。
一曲目の変奏曲の「主題」に用いられているメロディーはベートーヴェンの歌曲「ウズラの鳴き声」だ。そもそもベートーヴェンの歌曲はロマン派の歌曲のような陰鬱な情趣を表したものが少ない。これはクーラウの歌曲にも共通している。陰鬱で暗い情趣の故に使えないと言って詩を返却したという話がある。そんなことからクーラウがベートーヴェンの歌曲に共感を抱いていたことは疑いがない。因みにクーラウがベートーヴェンの主題を用いて作曲したものは全て歌曲からだ。この元曲の「ウズラの鳴き声」は3部構成の歌曲だ。今日の連弾曲は第一部のメロディが使われている。この曲の最初に現れる「タ~ンタ、タン」のリズムがウズラの鳴き声を模していると言われている。わたしゃ、ウズラの鳴き声を聞いたことがことがないけどこんな風に鳴くのかね~?このリズムが全3部に現れて全体の統一を取っている。歌詞の内容は題名から類推しづらいが<神の威光を畏れて、栄光を讃えよ>というものだ。主題と5つの変奏曲から成っている。多分、今日が本邦初演だろうね」

●それでは2曲目のピアノ・カルテット Op.32についてお願いします。
●「クーラウにはピアノ・カルテット(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノ)の曲が3曲ある。その内の第一番目に作曲したものだ。1821年頃の作曲だからウイーンに最初に行った頃だ。ウイーンでベートーヴェンの影響を受けたことも充分考えられる。第一楽章はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番に酷似していることは前にも話したけどカルテット言ってもまるでピアノ協奏曲のようにピアノが主体となっている。これはクーラウのピアノカルテット3曲とも共通に言えることだ。今回、弦楽器の厚い音域をフルート3本に編曲してお聴かせするのは無謀だと思うけど、IFKS協会の定期演奏会がいつも赤字続きだという事情もあるらしい。この演奏から原曲を思い馳せるのも一興かも知れない。・・なんてちょっと無責任な発言かな?

●それでは3曲目のグラン・ドゥオ Op.33についてお願いします
●「この曲の原曲はヴァイオリン・ソナタ作品33ヘ短調だ。ヴァイオリン曲をフルートで演奏することが近年大変多くなっている。フランクのソナタを筆頭にハチャトリアンの協奏曲までやってしまう人だっている。フルーティストはひまなのかねえ?でもね、その多くはヴァイオリンを凌ぐことが難しい。この曲も同じ調性でフルート用に編曲されたものがある。しかし、どうもしっくりこない。それをカミユは原曲から2度上げてト短調にした。これはフルートにとても良くマッチした調性だ。今度IFKSで出版したそうだから買ってみてごらん。IFKSは出版しても売れないと次の出版ができないらしい。
 カミユはクーラウと同じ時代のフランスのフルーティストだ。どこの図書館にもピアノ譜が見あたらないところをみるとフルートバートだけの出版だった可能性が高い。伴奏する人はクーラウのオリジナル・ピアノ譜を1音上げて演奏するしかなかったのかもしれない。クーラウのフルートのオリジナルでこれに勝るものは少ないように思われるくらい良い曲だ。第1楽章はピアノソロでは始まるがこれがまた「ウズラの鳴き声」の第2部の冒頭からの借用だ。至るところにベートーヴェンのにおいがするね。この曲を聴くと正に「フルートのベートーヴェン」という言葉が適切に思えてしまう。」

●それでは最後の曲、フルートカルテット作品103についてお願いします
●「これはフルート・カルテットの傑作と言っていいね。4本のフルートが同等に重要な役割をしている。どのパートを演奏しても同じような充実感を味わうことができる曲は少ないとフルーティストは言っている。クーラウがフルーティストだと思われても不思議ではないかもしれない。
解説になったかどうかは解らないけれど今日の演奏会がクーラウとベートーヴェンの関係について考えるきっかけになると良いね。

●トッシー先生、どうも有り難うございました。

編集後記
と言うわけで今回はかろうじてプログラム編集に間に合いました。なおご質問、ご意見はIFKSホームページの「トッシー先生のQ&A」までお願いします。