「Kuhlau in Denmark」その1
「Kuhlau in Denmark」Part I クーラウはハンブルクから1810年暮れデンマークのコペンハーゲンに移住しました。クーラウはこれを演奏旅行と定義付けています。しかし一般的に亡命と言われています。カスパール・マイヤーという偽名を使っているからです(甥クーラウの証言)。しかしクーラウの当時の手紙によれば初めからデンマークを定住地にしようとしたわけではないようです。 クーラウは作曲家とピアニストの両方の分野で活躍しました。作曲家と演奏家と職務をはっきり分類されるようになったのは近代になってからです。昔はその辺の線引きがが曖昧で作曲家すなわち演奏家と言う時代でした。1810年~1814年の間はクーラウは両面に力を注ぎましたが1815年~1818年はピアニストとに比重が多くかかっています。何故ならこの時期に生み出された作品が非常に少ないからです。(グラフ参照)
クーラウはデンマークに来てすぐ演奏会を開くことになりました。1810年の暮れコペンハーゲンに到着し翌年1811年1月23日コペンハーゲンの王立劇場における音楽会です。この時のプログラムには「ハンブルクのピアノ演奏家クーラウ氏」と紹介されています。 この演奏会の模様をブリッカは次のようにのべています。 クーラウの当時の姿が目に浮かぶようですね。 この時のピアノコンチェルトというのはハンブルク時代に作曲されたOp.7で1812に出版された時ヴァイセに献呈されました。 さて、クーラウがコペンハーゲンにおけるデビュー演奏会の後、2月16日にも音楽アカデミーで音楽会をしています。そこでは、再びピアノコンチェルト、ベートーヴェンのピアノ五重奏曲Op.16のピアノパート、自身のピアノ変奏曲(詳細は不明)を演奏しています。 この頃、劇場のピアノ教師の勤め口の話が持ち上がりましたがクンツェンの推薦があったにも関わらず不首尾に終わりました。もしかしたらこの交渉でクーラウの自己主張が幾分強かったのが理由かも知れません。劇場監督ハウク宛ての手紙にはこう書かれています。「---まず、私は300リグスダーラーという少ない額の年俸に甘んじることにいたします。しかし、当地で生活するにはそれだけでは不可能です。それゆえ私は一日の内の多くの時間をプライベートレッスンに当てなければなりません。ですから劇場の生徒さんがたのレッスンは毎日二時間以上にならないようにしてください。もしも、毎日3時間のレッスンをお命じになり年俸600リグスダーラーに増額して下さるなら私は副業をやめ、永らく望んでいたように煩うことなく一日の大部分を自分の芸術生活に没頭することができ、幸せを得ることができます。」 クーラウは比較的早くデンマークの上流階級、文化人の中にとけ込んだようです。この年の夏(1811年)には客人としてブルン家のソフィエンホルムに招かれています。そこではブルン家の令嬢のイダの歌に伴奏をしたりしています。また、若きハイベーア(後の『妖精の丘』の作者)とも会っています。 3回目のコンサートはその年の11月30日に王立劇場で行われました。その日のプログラムは再びC-Durのピアノコンチェルト、クラブの歌「武器を取れ、敵が来るのを見よ」のピアノのための変奏曲、新作f-mollのピアノコンチェルトの第1楽章(翌年全楽章が演奏されています)。この演奏会の主要の呼び物、ドイツ人フェルトハイム夫人によって歌われた「オシアンのコマラの名場面」でした。この曲はf-mollのピアノコンチェルトと同じく失われてしまいました。 その他、12月14日には宮廷の女王陛下の控えの間で演奏をし、100リグスダーラー賜りました。 クーラウの性格について、いろいろな人の様々な記述があります。上流階級にとけ込んだとは言え、堅苦しいことが嫌いで上流階級よりも市井の人々との間にいる方が居心地がよかったというものが多いのです。女性とは口もきけなかったような記述もありますが、宮廷で女王さまが自らお茶を差し出してくれたのに「シュナップスの方が---」と答えたというものもあります。もしかして極度の緊張のあまり口走ってしまったのかも知れません。傲慢で礼儀をわきまえない人物とは私には思えないのですが---。 クーラウ自身の手紙で彼から見たデンマークの音楽事情を見てみましよう。これは1811年12月にブライトコップフ&ヘルテル社に宛てたものです。 このようなデンマークの音楽情報をAMZ(ブライトコップフ社の週間音楽情報誌)にいくつか書き送っていますが、この仕事はクーラウの性格から不適任なものでした。いくつか情報を書いた後、他の人を推薦してやめています。 1812年、クーラウは継続的にコペンハーゲンに留まることを決意しました。 一連の音楽会の中には、1813年1月22日に音楽アカデミーで行われたものも含まれています。プログラムはベートーヴェンのコンチェルト(何番かは不明)のソリスト、自身のピアノのための「新しいポップリ」、ケルビーニのオペラ「二日間」のアリアによるピアノのための変奏曲(Op.12)等があります。 1813年の初め、クーラウは宮廷楽師になる許可を求めています。ある伯爵夫人の取りなしによって、クーラウは空席待ちの無給の楽師に任命されました。同時に彼はデンマーク市民権を請願するように促され、3月12日に叶えられました。しかし宮廷楽師と言っても肩書きだけのものですぐに経済的な助けにならず、いわば約束手形のようなものでした。(有給になったのは5年後の1818年4月25日)。クーラウは相変わらず、音楽会、作品出版、歌やピアノのレッスン(1時間3リグスダーラー)等の収入で生活をしなければなりませんでした。 この頃の作品はピアノ曲、歌曲、フルート曲等でありますが、そのほとんどはブライトコップフ&ヘルテル(以下B&H)社から出版され、クーラウのフルート曲の本格的な最初の二重奏、作品Op.10aもこのような状況の中で作曲されています。 クーラウの生活は常に苦しかったようです。度重なる請願にも関わらず、許可されたのは200リグスダーラーの劇場からの前借りだけでした。 1813年の春、シラーの詩による「喜びに寄す」の大カンタータを作曲しています。この詩はベートーヴェンの第9交響曲に用いられたものと同じものです。初演は翌年1814年4月11日に行われ、再演が1816年5月23日でこの曲の演奏回数は二回の記録が残っているだけです。いずれもあまり好評を得られなかったようです。この楽譜は出版されずじまいで、自筆譜(パート譜)がデンマーク王立図書館に保有されていますが、ブスク氏の試みにもかかわらず、かなりの部分の欠落によって完全な形の復元が不可能になっています。 フルート作品のOp.13の3曲のフルート三重奏曲は、丁度この時期に作曲されました。この作品に関して1814年3月8日のB&H社宛の手紙に「Op.13が出来上がり、ヘルテル氏に提供する」と書かれ、1814年7月20日の同社宛の手紙には「Op.13を送った」とあります。この曲は上記のカンタータ「喜びに寄す」が初演された演奏会(1814年4月11日)の時に同じく初演されています。 デンマークに来てから初めて作曲した劇場作品のオペラ『盗賊の城』は、クーラウの名前を一躍有名にさせました。このテキストはエーレンスレイヤーによるもので、中世の騎士を題材にしたものです。それまでのデンマークの音楽界に新風を吹き込んだものとしてセンセーションを巻き起こしました。初演は1814年5月26日にデンマーク王立劇場で行われ、それ以後クーラウの存命中は毎年劇場の出し物となりました。1879年の最後の公演まで計91回上演されています。 このオペラのリブレットをエーレンスレーヤーがクーラウのために書き下ろしたことはWhat's
Newsの「『盗賊の城』リブレット翻訳開始」に掲載しました。ご覧下さい。 この頃(1814年の半ばあるいは少し早い時期)に、両親と妹マグダレーナがクーラウを頼ってハンブルクからコペンハーゲンにやって来ました。クーラウにとっては、ますます経済的に苦しくなっていったのです。 クーラウは1814年12月21日、ベルリンのホルン奏者シェンケの演奏会を、また1814年1月29日、音楽アカデミーの演奏会を行っています。 クーラウが1811年~1814年に作曲した曲は次のようなものがあります。 Op.5a---Sonate fuer Klavier (1811~12) Op.6a---3
Sonaten fuer Klavier (1811) Op.6b---Sonatine in D Dur fuer Klavier, Violine ad lib.(1811-12) Op.8a---Sonate fuer Klavier a-moll (1812) クラブの歌「武器を取れ、敵が来るのを見よ」のピアノのための変奏曲(紛失) ピアノコンチェルト第2番 f moll(紛失) Op.9---Sei Canzoni mit Klavier (1813) Op.10a---3 Duos
fuer 2 Floeten (1813) Op.11a---10 Deutsche Lieder mit Klavier (1813) Op.12---7 Variationenn fuer Klavier (um 1814) Op.13---3
Trios fuer 3 Floeten
(1814) Op.14---7 Variationenn fuer Klavier (ca. 1813) Op.15---8 Variationenn fuer Klavier (ca. 1815) 1812年11月30日「オシアンのコマラの名場面」演奏(紛失) 1813年の春、シラーの詩による「喜びに寄せる」の大カンタータ作曲(大部分紛失) Nr.129---"Roeverborgen" (1813)『盗賊の城』 ただし、Op.7---Klavier Konzert C-Dur はハンブルク時代の作品です。 (赤字は2001年10月21日の第二回IFKS定期演奏会のプログラムに登場した曲です) (緑字は2002年7月5日の第三回IFKS定期演奏会のプログラムで演奏される曲曲です) |
「Kuhlau in Denmark」その2
Kuhlau in Denmark Part II この時代の作品 Op.16, 8 Variationen fuer Klavier ueber "Kong Christian stod ved hoejen Mast" (作曲年ca.1818, 出版1819 ) Op.17, Sonatine in F Dur fuer Klavier zu 4 Haenden (作曲年代不詳、出版1818) Op.18, 9 Variationen fuer Klavier ueber "Willkommen, Purpurschale, du!" (作曲年代不詳、出版1819) Op.19, 10 Deutsche Gesaenge mit Klavier (作曲年ca.1818, 出版1819) 作品16について 「有名な出版業を営む御社において私の作品の一部を出版していただきたいという私の希望を申し上げることをお許し下さい。まずここに作品16のソナタを同封します。もしもあなたがこの作品の価値を正当にご評価下さるなら、出版の条件として5 Louisdorを提案したいと思います。間もなく私は演奏旅行に出かけてしまいますので、できれば至急のご返事をいただければ有り難いと思います。もしも、このソナタの出版の同意を得られなければ、ヘルテル社に提供しようと考えています。」 これに関するペータース社宛の手紙(1815年11月28日付け)があります。 「私のソナタの出版の同意を得られなかったことはまことに残念なことです。ヘルテル氏も同様に受け入れてくれませんでした。そこでお手元のソナタの楽譜を至急送り返して下さる事をお願いいたします。」 ということでこのピアノソナタはペータース社からもブライトコップフ社からも断られました。出版の日の目を見ないままになってしまったのです。実際に出版されたOp.16は全く別のものです。 ここでこの二つの作品を聞いて頂きましょう。 Op.16, 8 Variationen fuer Klavier ueber "Kong Christian stod ved hoejen Mast" Op.127, Sonate in Es Dur fuer Klavier 作品ジャンル別表
緑字は第3回定期演奏会で演奏される曲 斜体は盗賊の城以降からOp.20までの間に作曲された作品 クーラウの作風 その例としてここで二つの曲を比較してお聴きください。如何に両者の音楽の質の違いがあるかおわかりになるはずです。 Op.17, Sonatine in F Dur fuer Klavier zu 4 Haenden Op.18, 9 Variationen fuer Klavier これは後世のクーラウの評価に大きな影響を与えた事柄です。もし、彼が自分の作風だけを追求して行く時間の余裕があったなら書かなくてもよい作品は沢山あったはずです。考えてみるとクーラウはピアノのソナチネとフルート曲で音楽史にその名前を留めたのです。彼を有名にした例の作品20のピアノのためのソナチネは注文の作品です。フルート曲の多くは同様に注文作品です。皮肉と言えば皮肉な話です。上記の2つの作品をお聴きになってその違いがはっきりとおわかりになったことでしょう。 Komponistは作曲家という意味ですがその他に Tonsetzerという言葉がドイツ語にあります。音を当てはめる人、幾分職人的意味合いが含まれているように思われます。クーラウの注文相手の要求に合わす(出版社は音域、ページ数まで限定して注文をする場合があります)技術は卓越しています。まさにTonsetzerという言葉がぴったり当てはまります。出版社の要求に合わせることができたからクーラウは仕事を増やすことができたのです。 それではどの作品が自らの欲求で作曲されたものなのでしょうか?
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