デンマークとドイツの狭間で---バゲセンとオペラ「魔法の竪琴」

デンマークとドイツの狭間で---バゲセンとオペラ「魔法の竪琴」
福井信子


「魔法の竪琴」の台本を書いたイェンス・バゲセン(1764−1826)は、18世紀から19世紀にかけてデンマーク文学史の流れの中で、ヨハネス・エーヴァル(1743−1781)とアダム・エーレンスレーヤ(1779−1850)の間に位置する重要な存在である。バゲセンをはさむ二人の詩人のうち、エーヴァルはデンマーク国歌「クリスチャン王はマストのそばに立ち」の作者として知られ、一方エーレンスレーヤは第二の国歌とも言われる「愛らしき国あり」を書いており、両者ともにデンマークの愛国の心を思い起こさせる名前である。
それに比べると、バゲセンはシェラン島西岸の町コセーアに生まれたデンマーク人であるが、ドイツ系の上流貴族との交流によりドイツ文化から多くの刺激を受け、デンマーク語とドイツ語の両方で書いており、外国滞在が長くなったこともあり、デンマークとの絆がそれほど深くはなかったという印象を受ける。イマヌエルというミドルネームを持っているが、これはバゲセンがカントの哲学に傾倒した証である。とはいえ、言語感覚の鋭さ、機知に富み、卓越した表現力等で早くから揺るぎのない評価を得た紛れもないデンマーク詩人である。後のロマン主義に往々にして見られる大げさな感情表現や熱狂とは無縁で、しなやかな洗練された美意識のもと、悲しみ、喜び、ユーモア、風刺を自在に組み合わせ、多彩に変化する気分や雰囲気を巧みに表現している。当時の人々から「三美神の詩人」と称されたことさえある。
バゲセンが生まれてから、デンマーク国内には大きな変化が生じていた。1773年に国王の侍医であったドイツ人ストルーエンセが失脚した後、ドイツへの反目が生まれ愛国主義が急激に高まったのである。デンマーク語が正規の科目としてラテン語学校で教えられることが定められ、その教材として1777年にオーヴェ・マリングによる非常に愛国的な内容の読本が出版された。1777年にラテン語学校に入学したバゲセンは、ちょうどこのマリングの読本を手にした世代である。
ドイツとデンマークの対立が公然と現れた最初の事件と目されるのが、1789年の「ホルガー論争」である。この年の3月31日にバゲセン作、ドイツ出身のクンツェン作曲のオペラ「ホルガー・ダンスク」が上演され、優れた作品として評価を受ける一方で、「ホルガー論争」と呼ばれる政治的な背景を持った論争が巻き起こった。そもそもオペラというジャンルはドイツのものであり、作曲者もドイツ人ではないか、デンマーク人のアイデンティティは一体どうあるべきかという論争であり、ドイツ的であるすべてのものに反発する当時の状況が反映されていた。バゲセンの台本もあまりにドイツ的、あまりに非デンマーク的だと非難され、有力なドイツ人楽譜出版者がバゲセンの才能はエーヴァルを上回ると評したことも、デンマーク人の心を逆なでした。この論争のため作品自体も間もなく演目から外され、1980年代の復活まで長い時間が経過することになる。
1789年はいろいろな意味でバゲセンにとって転機となった年であった。論争を横目にバゲセンは5月に最初の外国旅行に出発する。ドイツ、スイス、フランスへの1年半の長旅であった。この旅行から代表作『迷路』(1792−93)が生まれ、これは近代デンマーク語散文を創造した作品と位置づけられている。バゲセンならではの「韻文書簡」という形式による『亡霊と彼自身 バゲセン対バゲセン』(1807)も注目される作品である。デンマークに戻っては次の旅に出るという状況が続き、1800年から1811年まではほぼパリに定住している。デンマークに落ち着いていたのは1813年から1820年まで、それが後に述べるようにエーレンスレーヤを厳しく批評し、「魔法の竪琴」の騒動が起こった時期である。
クンツェンはそもそも1785年にコペンハーゲンを訪れて以来バゲセンと友情を結び、オペラ「ホルガー・ダンスク」は二人の綿密な共同作業で完成したものであった。二人はさらに2つのオペラ「エーリク常善王」、「アリオンの竪琴」に取り組む予定であったが、このうち前者の台本は完成していたものの、後者は第1幕が書き終えられただけで、残りはまだスケッチ程度であった。論争のためコペンハーゲンで職を得る可能性を閉ざされたクンツェンも、1789年にデンマークを去るが、そのときバゲセンによる完成、未完成の台本を携えていた。その後クンツェンは1795年に楽長としてコペンハーゲンに招かれ、1798年に発表したオペラ「エーリク常善王」は成功を収める。そして「アリオンの竪琴」に取り組みたいと意欲を燃やしたクンツェンは、バゲセンを待っていては埒があかないと考え、バゲセンに知らせぬまま知人の手に委ねてドイツ語台本を完成させた。舞台をスコットランドに移し題名も「オシアンの竪琴」とした。十数年後バゲセンのほうも台本を完成させ「魔法の竪琴」という題で、クーラウに作曲を依頼する。こうした経緯が「魔法の竪琴」騒動を生むことになるのである。
 
バゲセンは1777年から1782年までスレーエルセのラテン語学校で学んでいる。このラテン語学校は、その40年後に有力者の支援をうけたアンデルセン(1805−1875)も入学した学校である。アンデルセンは1832年に、まだ「即興詩人」も最初の童話集も発表していない頃、デンマークの作家それぞれに寄せて短い詩を書いたことがある。
数年前に世を去っているバゲセンについては、次のような言葉が見られる。「なにもない海岸に波が寄せる。さまよう君よ、わかるだろうか。波は低い声でこう歌っている。昔コセーアは本当に小さかった、だがバゲセンが生まれ、町は大きくなった」。フューン島のオーデンセもその後同じように、アンデルセンの生まれた町として名を高める。一方、エーレンスレーヤに対しては言葉を費やし次のように賞賛を贈っている。「大勢のなか、最後に来るのはあなた。巨匠は最後に登場し、縁枠の近くに立つ。あなたはアラジンの城を金銀で建てた。でもあなたが詩人として築いた城はさらに大きな宝を誇る。偉大な事跡、喜び、悲しみの世界。私たちもハーコン大侯とともにトーラの城へ。トロンハイムの教会でアクセルはヴァルボーを失い、森の木陰でコレッジョの心臓が張り裂ける。小さな羊飼いの少年の後をついていこう。森であなたの夕べの劇を見る。私たちは喜び悲しみをアミーネと分かち、月明かりのもとあなたの盗賊の城へと向かう。北欧の神々の誇り高い姿が夜の雲に見える。あなたは神々を今一度蘇らせ、あなたが神々に与えたものを、神々はあなたと共にする。それは死も墓も打ち砕く永遠の名前」。エーレンスレーヤの代表作が詠み込まれており、クーラウの第1作目のオペラ「盗賊の城」への言及も見られる。
この小品からは、アンデルセン自身がエーレンスレーヤを崇めていただけでなく、1830年代のデンマーク社会でエーレンスレーヤこそ偉大な詩人として讃えられていたことが伺える。実際には、エーレンスレーヤは若くして頂点を極めた後、ほとんど成長することなく作品を書き続けたと後世から評価されることになるのであるが、19世紀の前半にはエーレンスレーヤは神聖なる存在として、批判は許されないという雰囲気が濃厚にあった。
バゲセンが年下のエーレンスレーヤの才能を高く評価し、「現在のデンマークで最高の歌人」と賛辞を贈ったこともある。それは1800年にバゲセンが外国旅行に出るときで、自分がこれまで所有していたデンマークの詩の竪琴をこの若い詩人に委ねようとまで表現した。だが二人は詩人としての資質も大いに異なり、新しいロマン主義の時代を代表するエーレンスレーヤにとってバゲセンは古い時代の詩人であり、バゲセンはロマン主義を美学的な観点から批判的にとらえていた。エーレンスレーヤは1805年から1809年にかけて外国旅行に出たが、二人が初めて直接言葉を交わしたのは、1807年パリにおいてである。
バゲセンは1813年の終わりから活発な批評活動を行い、とくにエーレンスレーヤの劇作品には痛烈な批判が向けられた。バゲセンは「ハーコン大侯」を悲劇の傑作、「コレッジョ」も美しさに輝く作品と評価する一方で、「盗賊の城」などの弱点を容赦なく批判した。「アクセルとヴァルボー」を評するとき、バゲセンは「惜しむらくはあまりに早く、あまりに盲目に、あまりに幼稚に神格化されてしまった詩人の、すべてのデンマーク人の心をとりこにする最良のすばらしい作品」という表現を用いている。確かにエーレンスレーヤは明らかな失敗作をいくつも発表しており、バゲセンを苛立たせていた。
それに対してエーレンスレーヤ擁護のために立ち上がったのが、ペーザー・ヨト(1793−1871)たちである。ヨトはエーレンスレーヤの作品の質が低下していることは認めながらも、あまりにひどい批判は許せないと、1816年に「イェンス・バゲセンについての12箇条」を発表する。ヨトはバゲセンの批評が不当だと反論するために立ち上がったのではなく、バゲセンの文学的業績をすべて否定し、デンマークの詩人に値しない、デンマークの文学に「害をもたらす雑草」だと一方的に攻撃した。攻撃をうけたバゲセンはヨトを名誉毀損で裁判に訴えた。
その裁判の進行中、ちょうどエーレンスレーヤは外国に出て不在のときであったが、「魔法の竪琴」をめぐる盗作騒動が起きる。1817年1月の国王誕生日にバゲセン作クーラウ作曲のオペラ「魔法の竪琴」が上演されると告知され、その案内が載った同じ新聞に、ヨトの「バゲセンによるオリジナル作品と言われているオペラ『魔法の竪琴』と、同作品の原典との非常に際立った類似性について」という文章が掲載されたのである。また新たな訴訟が起こされ、結局「12箇条」と「魔法の竪琴」のどちらの件においてもバゲセンの主張が認められ、1818年5月25日にヨトが200リクスダラーの罰金を支払うという判決で決着した。バゲセン自身も1813年から続いていたこの論争に終止符を打ち、1820年にデンマークを去った。1826年故国への最後の旅の途上ハンブルクで息を引き取り、キールに永眠の地を得ている。
無断で台本に手を加え作曲したクンツェンに、バゲセンは当然腹を立てた。二人とも体調はすぐれず互いに神経を高ぶらせたやり取りがあったが、最後には和解に至り、バゲセンは次のように言葉を結んだと伝えられている。「クンツェン、あなたを心から許します。あなたの名誉は回復されます。あの作品を上演することを私は完全に許可すると申し上げましょう。バゲセンがどれほどあなたの友人であるか、あなたはわかることでしょう」。それは1817年1月28日のことであった。だが和解も束の間、その日の晩にクンツェンは心臓発作で世を去るのである。
最後に、バゲセンを攻撃したヨトのその後について。「バゲセンについての12箇条」は、一方でヨト自身の深い学識を示すものという評価もなされ、自身の独訳でドイツの大学に提出し博士号を授与され、その後ヨトの人生を切り開くものとなった。ヨトは貴族のお供として長期の外国滞在の機会を得、帰国の後1822年から閉校の1849年までソーレー・アカデミーでドイツ語を教授している。
18世紀の末から19世紀にかけてのこの時代を見ると、デンマークとドイツの間で時勢に翻弄されながら、それぞれに実り多い活動に邁進した当時の人々の息吹が、現代の私たちにも伝わってくるように思われる。