もう一つの『クーラウ詣り』ー後日談 ー

このページは”もう一つの『クーラウ詣り』”の話の次に来るべきものですが一年後にやっとアップされたものです。


『盗賊の城』演奏会のプログラム・解説はブスク会長


 あれからすでに1年以上経ってしまった。2000年8月23日~31日、デンマーク及びスイス旅行をした話はコラムに『盗賊の城』紀行---もう一つの「クーラウ詣り」前編と後編に掲載した。
 その後の
 *ブスク氏のE-Mailやインターネットのパソコンがどうなったか?
 *ハンブルクの図書館で見つかったクーラウの楽譜とは?
 *『盗賊の城』の評価は?
 など読者に詳しく報告していない。私はこれを報告する義務がある。しかし、その成果はあまり芳しくないことが筆が進まない原因にもなっている。
 まず、ブスク氏のE-Mailについて述べよう。
 ブスク氏の家にパソコンをプレゼントしてきた話はすでにご存知だろう。しかし、現物は後日配送ということで私はそれを見ないで帰国した。ご子息のヤコプがセッティングを引き受けてくれた。ヤコブからのメールによると何らかの不具合がありしばらくパソコンは動かなかったらしい。しかし、とうとうブスク氏からE-Mailが届く日がやってきた。


Wed, 18 Oct 2000 00:19:34
Lieber Toshinori
Endlich fungiert der Computer, aber es ist sehr schwierich für mich.
Jacob hat alles instruiert.
Später kommt mehres.
Es heisst nicht: rødhoved, sondern rodehoved (und Gorm ist ein grösser rodehoved, sagt Jacob)
Viele Grüsse
dein Gorm

2000年10月18日(水)19時34分
 親愛なる利矩くん
 ついにコンピューターが稼働したがそれは私にとって大変難しいものだ。ヤコブが全てインストールしてくれた。後日、もう少し(ソフトが)届くことになっている。
 rødehovedではなく rodehovedと言うのだよ。(ヤコブは「ゴルムは偉大なrodehovedだ」と言っているよ)
ごきげんよう。
ゴルムより


* rodehovedとは「おばかさん」とか「だらしない者」とか言う意味である。私がブスク氏と会っているとき、どちらかが何か失敗したりおかしな事をするとお互いに rodehovedという言葉を投げかけるのが常である。私はrødehovedと発音していたらしい。oとø(oに斜線が右上から左下へ串刺しになっているアルファベット)の発音は我々にとっては難しい。(もしかしてこのアルファベットはこのページで文字化けしているかも知れない)
  "Gorm Busk" <Gorm.Busk@worldonline.dk>がそのアドレスとなっていた。
 上のメールが送られてきたのはパソコンが彼の家に届いてから約一月半の時間が経過した頃である。
 2001年12月31日現在までブスク氏から私の所に16通のメールが届いている。ということはあまり頻繁には使用していない様に見える。少し長い文面は添付ファイルで送ってくる。この方が難しいと思うのだが----。
 インターネットに関して「自分はインターネットは殆どしない」と言っている。私もフォーラムに投稿してもらおうと欧文で書いたりして努力したが未だにブスク氏の書き込みは実現していない。どうもインターネットは苦手のようだ。こちらからメールを打ってもすぐ返事がこない。多分毎日は見ていないようだ。
 私がフォーラムで彼のアドレスを載せて、IFKSの会員にパソコン初心者への激励の手紙を送ってほしい旨を書いたことがあった。これを見て何人かの方がブスク氏にメールを送ってくれた。しかし、ブスク氏はその人達に返事を書かなかった。まだメールに慣れていなかったせいもあるかも知れないがインターネットでプライバシーを侵害されることを恐れているように見受けられる。ブスク氏はクーラウ協会での自分の任務はクーラウの音楽の解説や楽譜を校正する事にあると考えている。会員と会長とのコンタクトが生まれれば素晴らしいことだと考えた私は少し残念な気持ちだ。
 しかし私は信じている。クーラウについてのことでブスク氏に訊ねたいことがあれば必ず返事は書いてくれると思う。勿論ちゃんとIFKSの会員であることを自己紹介しなければならない。それに日本語では文字化けしてしまうから欧文で書かなければならない。デンマーク語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、何でもOKである。
 現在、IFKSサイトのEnglishのページはあまり多くない。「インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会」と言う以上、英語のページを充実しなければならない。おそらく外国人がこのホームページを見ても日本語だらけなので入りにくいのかも知れない。いずれEnglishのページを増やしブスク氏にも楽しんでいただけるようなホームページにしたい。


 

クーラウのオペラ???

それではハンブルクで見つかったクーラウのオペラとは何だったのだろうか。コペンハーゲンからドイツを経由して帰国する河野洋子さん、山田明子さんとは別行動になった。ひとあし先に日本に帰った私の所にハンブルクから連絡が入った。ハンブルクの国立図書館にクーラウのオペラの楽譜があるというのである。もしかしたらハンブルク時代のオペラ『愛の勝利』かも知れない。そのオペラは「序曲」が演奏された記録がある。失われてしまったものとされている。私の胸は高鳴った。早くそれを見てみたい。すぐにもハンブルクに飛び立ちたかった。しかし、彼女たちの帰国を待って事情を聞いてからにしてみることにした。
 彼女たちは成田に着くとすぐ電話をくれた。ハンブルクでクーラウの楽譜を探すために国会図書館に出かけ、係りの人にクーラウの曲が無いか訊ねたのである。司書の人がカードから探して出してくれたものは確かにクーラウのオペラだという。禁止されていることであるがこっそり写真に撮ってくれていた。それが上の写真である。司書の人のメールアドレスも聞いておいてくれた。
 すぐさまメールを出し確認をとったがなにやらよく分からない。
 ハンブルクに住む幸渕裕美子さんに連絡をとり図書館に行ってもらい詳しいことを聞いてもらった。その結果、図書館のカードが記載が間違っていて、それはFriedrich Wilhelm Grundという作曲家の「Mathilde」というオペラであることが判明した。
 ああ、なんたることか。クーラウ研究にとって新しい事実が判明するはずだったのに・・・
 私の落胆はジャンボ宝くじで一番違いを引いたような気持ちだった。その後、幸渕さんから「Mathilde」のマイクロフィルムがプレゼントとして送られてきた。
 新しい研究はそんなに生やさしいものではないことを思い知らされた。


 次に『盗賊の城』演奏会の1999年8月26日以後に載ったデンマークの3つの新聞の批評をご紹介しよう。旅行後にブスク氏から送られてきたものである。IFKS叢書No.3『盗賊の城』の翻訳者の福井信子さんに訳していただいた。
盗賊の城(新聞評)
翻訳:福井信子

ベアリンスケ・ティーゼネ紙(Berlingske Tidende)の評 2000.8.28.
「人々と盗賊たち」イェンス・ブリンカー
 モーツァルトの「魔笛」からヴェーバーの「魔弾の射手」までの30年間、そのなかで独創性あふれるもの、天才的なものそれぞれの代表格を挙げるなら、ベートーベンの「フィデリオ」とロッシーニの「セビリアの理髪師」になろう。「盗賊の城」はこの2作品にとうていかなうものではない。けれども、素晴らしい作曲家の書いた良い音楽を愛する者にとっては、「盗賊の城」はまさに宝の山で、見事なアリア、美しいロマンス、輝くようなアンサンブルにあふれており、それは専門家も愛好家も喜ばせ時に魅了しうるものである。
 だが「盗賊の城」は長い年月、そのような機会にあまり恵まれずにきた。クーラウの「妖精の丘」とは対照的に、「盗賊の城」は19世紀のうちに王立劇場のレパートリーから姿を消した。それは音楽のせいというよりは、台本が弱かったためであろう。エーレンスレーヤが中世プロバンスを舞台に人々や盗賊を描いた台本は、馬鹿馬鹿しさにおいてヴェルディの「トルバドール」にも匹敵する。この作品が今日音楽劇として舞台で復活することはとても想像できない。だが、対話の語りの部分をつけたりせず、歌をつなぎ合わせる苦しまぎれの粗筋紹介もなければ、「盗賊の城」は意外なほど喜びを与えてくれる作品である。そしてそのようなものとして先日チボリの演奏会でみごとに演奏されたのである。タマス・ヴェトが、チボリ交響楽団、コンサート合唱団、何人もの独唱者を指揮した。
 エーレンスレーヤの台本はどれほどでも悪く言うことができるが、良質な点が1つだけあったことは否定できない。つまり、作曲家に技能のすべてを発揮させる機会を与えたことである。この作品が今日にいたるまで興味深いのは、クーラウが見せているその個性のゆえである。ここで耳にするのは、音楽史の概説書ではなくクーラウ本人の声であり、その声は切実に力強く語っている。第1幕の三重唱「皆の心の恵み深い女神」のように、各声部がカノンとなり美しい響きにまとめられている場合など、とくにそうである。ベートーヴェンでさえ、カノン作曲家としてのクーラウの能力に敬意を表しており、この試みはベートーヴェン自身の「フィデリオ」におけるカノンに匹敵するものである。
 このほかに、大イタリア様式で喉が裂けんばかりのコロラトゥーラのアリア、いくつかのフランス風ロマンス、モーツァルト的なアンサンブルもあり、ロマン主義的なレトリックの中で、これらはコミカルであったり皮肉であったりする心地よい挿入的な音楽によって味付けされている。聴衆も演奏家も退屈することはない。意欲的な音楽がたっぷりあり、チボリの歌い手たちも見事にそれに答えていた。
 とくに糸巻き棒的側面は、爆発的なコロラトゥーラソプラノであるデイナ・マイ=マイによって力強く占められていた。美しく響き渡るソロにおいても、エリサベト・ハリングのメゾソプラノも加わった素晴らしいアンサンブルにおいても、イルヴァ・キールベアをリリカルな相手方としていた。クーラウは女声を大いに利用し、恐れ怯むことのない若者のように実験に挑む。それはモーツァルトもロッシーニもあえてしようとはしなかった実験である。そしてすべて見事にやり遂げられた。男声には存在を主張するほどの可能性はあまり与えられていない、だがヨニー・ファン・ハルは、恐れを知らず非の打ち所のない騎士の役に、英雄的な輝きを与え、イェンス・クロウスゴーは、騎士の忠実な鎧持ちとしてしなやかにリリカルに響くよう配慮していた。またラース・トズベア・ベアテルセンは悪い父親にふさわしく権力に満ちていた。
 これらすべてを統括していたのがタマス・ヴェトである。オーケストラともう少し練習時間をとった方がよかったかもしれない。というのは、初めの何曲かでオーケストラがひどい汚点を作ってしまったので。だが敏捷さもありテンポは特徴をとらえており、器楽でのポイントも押えられ、バランスもよかったので、クーラウの音楽として高い水準であった。忘れられた楽譜の単にほこりを払ったというのではない、それ以上の演奏であった。クーラウの音楽としても演奏成果としても勝利を収めたと言えるので、CDとして演奏が残ることを望みたい。噂ではCD化されないらしいが。

ユランス・ポステン紙(Jyllands-Posten)の評 2000.8.28.
「ほこりを払われた盗賊の城」 クヌーズ・ケティング
チボリコンサートホール「盗賊の城」
チボリコンサート合唱団と交響楽団
指揮:タマス・ヴェト
 「与えられた歌詞を満足させるメロディーがすぐに見つからないとき、彼は似たような主題の美しい詩集を通読することにより、自分の感情を呼び戻し活性化させるのに夢中になるということがよくあった-『そもそも私はこちらの詩に作曲すべきで』と彼は陽気に笑いながら付け加えた。そのくすんだ歌詞の作者をからかっては面白がっていた。」
 デンマーク黄金時代を飾るドイツ生まれの作曲家クーラウについての文だが、残念ながら私の言葉ではない。演劇史家のトーマス・オウアスコウは、エーレンスレーヤの台本で1814年に王立劇場で初演され1879年を最後に上演されていないという、クーラウがデンマークで最初に発表したこのオペラ「盗賊の城」が、どのように受け入れられたかを記述しているが、その記述の中の一節である。
左手で書いた台本
 150年近く前の発言であるにもかかわらず、このオウアスコウの言葉が、残念なほど現実に即しているということは、チボリが「黄金時代フェスティバル」と共同で一晩だけこの「盗賊の城」をホールで上演したときに明らかとなった。
 なぜなら問題はまさに、クーラウの音楽は、エーレンスレーヤが書いたおざなりの台本にはもったいないほどのものだということである。13世紀のプロヴァンスを舞台としたドイツの盗賊小説を下敷きにエーレンスレーヤは書いたのだが、こんなものよりはるかにはるかに優れた台本があるはずで、そのような台本にこそふさわしい音楽をクーラウは書いているのである。
 舞台という点から見れば、今日上演されることはありえないだろうし、たとえ演奏会形式で会話の部分をほとんど取り除いたとしても、聴衆に真剣に聞いてもらえるかどうかは難しいところであろう。
 その晩の出演者たちも、ただ譜面台の前に仮面をつけて立っているだけではだめだということがわかっていたにちがいない。だから2幕目の毒入りオムレツのくだりでは - 読み違いでなく確かにオムレツなのだ - 指揮者のタマス・ヴェトはフライパンの用意をしていた。出演者を登場させる折々に彼は小さな工夫をしており、それにぱっと目を引かれることも何度かあった。
義務的仕事
 残念ながらそのような火花で最後までもたせることはできなかった。第1幕のほとんどには、義務という灰色の雲がかかっていた。
 ヴェトはその雲を晴らそうとできる限りのことはした。だが歌い手たちからはほとんど支えてもらえなかった。唯一ヨハン・ロイターと部分的にジョニー・ファン・ハルだけが、音符通りに正しく歌う以上の輝きを見せていただけである。だが休憩の後、デイナ・マイ=マイ、クリスティーネ・マーストラン、パレ・クヌセンも舞台に登場してくると、幸いにも状況は変わった。
 再びオウアスコウに言及することになるが、彼がクーラウの見事なまでの器楽編成を強調しているのは正しい。燃えるような序曲の後、チボリ交響楽団はそれ以降の音楽に対処するに、いわば60ワットの電球でしかなかった。だがそのような電球ではクーラウの器楽編成を反映させることなど無理であった。このことだけは承知しておいた方がいい。
 全体として当夜は、ヴェトが最初からユーモラスにはたきと楽譜の束でほのめかしたまさにその通りのもの、つまり、残念ながらほこり払いにしかならなかった。
 おそらく誰もが楽しみにしていたような、復活とはならなかったのである。

ポリティーケン 紙(Politiken)の評 2000年8月29日
騎士と盗賊の面々 トマス・ミケルセン
ジングシュピール「盗賊の城」は期待を上回る印象を残した.
 クンツェンの「ホルガー・ダンスク」が,国内上演の記憶にある限り最悪ともいえる舞台となり,王立劇場でよろけたのに対し,土曜日に上演された同時代のクーラウの「盗賊の城」の方は,チボリでの二度とはない素晴らしい演奏会として味わうことができた.
「二度とない」と言うのは大げさでも何でもない,というのもこのジングシュピールは19世紀に成功して以来,文字通り聞けなかったのであるから.だからこそ楽譜を指揮台に載せたとき,指揮者ヴェトは大きなはたきで儀式っぽく埃を払い落とした.それから手にマイクを持って,フランスの騎士や美しい娘たち一同を紹介し,たっぷり2時間はかかるオペラの案内を,聴衆たちに面白おかしくやってのけた.
 エーレンスレーヤの古めかしい手抜きの作が耐えられないものだということはわかりきっていたので,会話の部分ははじめから削除されたのであるが,それだけに,削除しきれずに歌い手たちが語った台詞はなおいっそう滑稽であった.そのかわり,ヴェトの指揮で生まれた音楽は予期もしない好印象を与えた.何度も同じことを言いたくはないのだが,ヴェトは実に素晴らしいオペラ指揮者である.演奏家,歌い手,クーラウをすべて大事に扱い,その最もすぐれた点を目立たせるようにしているのであるから,それは何とも気持ちよいもので,また心ひかれずにはいられない.落ち着き余裕を見せながら,彼は話を展開させ,最後に恋人たちは結ばれ,妻を殺した盗賊のカミロも,実は死んではいなかった妻と再会することとなった.
 まず言いたいこと,それは小編成のチボリ交響楽団が,古典主義の,ほんの少しだけロマン主義が芽生え始めたというこの曲を,まったく見事に演奏していたことである.だがそれだけではなく,10人の独唱者たちも,さらに高い水準へと音楽を運んでいった.ヨハン・ロイターはバリトンの美声で堂々たる大公を演じ,娘を大公と結婚させようとする理性的な騎士ベルナールを演じたトズベア・ベアテルセンも,同じようになめらかに歌っていた.娘役のイルヴァ・キールベアは,第1幕のレチタチーヴォとアリアを美しいレガートで歌ってみせ,友人テレーセ役のエリサベト・ハリングとの二重唱では,二人とも技量を見せつけた.技巧的な歌唱が最も見られるのは,デイナ・マイ=マイの歌った大公夫人の役であるが,赤毛を高く結い上げ目を輝かせて歌う姿には,舞台の力を発散させる劇的なものがあった.
 主役の騎士アイマルを歌ったヨニー・ファン・ハルは,よく響き渡った声であるが,母音や妙に柔かいtの子音に問題があった.同じく,王立劇場で「ホルガー・ダンスク」を歌っていて,今回クーラウの方にも呼ばれたアナス・ヤコブソンであるが,母音の口の開きが狭く,こちらも最上の出来栄えという印象ではなかった.その代わり,盗賊たちの賄い女という脇役で,クリスチーネ・マーストランのがみがみ女は愉快だった.
 盗賊の合唱でも独唱のときにも,面白い小道具が使われていた.全体として,クーラウの素晴らしい音楽が,期待を上回って披露される結果となり,このドイツ系デンマークの作曲家クーラウが,モーツァルト的オペラセリア,フランスのオペラコミック,友人ヴァイセのロマンスの調べをいかに受容しているかということを,実に興味深く感じさせてくれた.クーラウの専門家ゴーム・ブスクが,演奏会プログラムで洞察深く注釈しているように,このジングシュピールはケルビーニ的な救出オペラの特徴を持っており,その意味でベートーベンの「フィデリオ」に連なるものである.クーラウはかつてベートーベンに出会い,即興のカノンを互いに交換したことがある.
 何よりも多くのアンサンブルに楽しませてもらった.実に美しい響きが産み出されていた.素晴らしいオペラ上演のために全員が力を合わせたといっていい.そうであればこそこの成果をCDにしようという話がないのは,残念というほかない.国の助成を受けているレコード会社「ダカーポ」は今経営が苦しいということはわかるが,これこそまさに,ダカーポが主旨とするデンマーク音楽選集に組み込むべき企画であるのだから.


 以上の話からその後のことがお分かりいただけただろうか。もう一つの「クーラウ詣り」と名付けたこの旅行の大きな収穫は『盗賊の城』の演奏のまれなる機会に恵まれたことである。これを聴いたことでIFKS定期演奏会での上演を試みてみようという勇気が湧いた。その演奏会は2002年11月30日。今年はこのために忙しくなるだろう。考えてみれば「後日談」はまだ続いていることになる。
(おわり?)