クーラウのフルート二重奏曲 作品80&作品81 の作曲年

「ウイーンで作曲されたものか」についての考証

クーラウは1821年に2年間の外国旅行を企て、ウイーンに初めて旅行をしました。この旅行ではべートーヴェンとの面会は実現しませんでした。この時ウイーンからデンマークの知人トリアーに出した手紙に路銀を稼ぐために毎朝作曲し、夜は観劇をしたことが書かれています。

クーラウ研究に於いて2度目の旅行については詳しいことがわかっていないのですが、べートーヴェンの会話帳にクーラウが登場していることによってウイーン滞在中のことのみが知られることとなりました。1825年9月2日、クーラウはべートーヴェンとウイーンの近郊バーデンで会うことができました。2度目のウイーン旅行でも旅の費用を稼ぐため作曲していたはずです。

べートーヴェンの会話帳の中で(In Konversationheft von Beethoven Seite 8-109)
Er hat dem Kühlau/ für 6 Flötenduetten/ 80# gegeben antici-/pando
彼はクーラウに6曲のフルート二重奏曲のために前金で80フローリンを支払った。

という書き込みがあります。クーラウの名前にウムラウトがついていますがこれは筆記者の誤りでしょう。筆記者は楽譜出版社のシュレジンガーとされています。彼は9月2日のべートーヴェン面会者一行の一人です。

この中のEr (彼)とは誰だったのでしょうか?

また会話帳の他の個所で(In Konversation Heft 112)
Kuhlau schmiert 6 Flötenduetten/ in 6 Tagen hin: und 80#!
クーラウは6曲のフルート二重奏曲を6日間で書きなぐ(った?)る、80フローリンで!

schmiertはschmierenの三人称現在形です。正しくはKuhlau hat hinschmiert. またはKuhlau schmierte hin. のように過去形、又は過去分詞形でないかと思われます。そうであればクーラウがウイーンで6曲のフルート二重奏曲を作曲したことは確かなことと言えます。

現在の研究ではこの6曲が1827年又は1828年にSimrock社&Farrenc社から共同出版されたOp.80の3曲、Op.81の3曲の計6曲であろうとされています。その理由はこの頃作曲されたフルート二重奏曲にはこのべートーヴェンの会話帳に出てくるものしかないことによります。一般に作曲年はクーラウと出版社の往復書簡から特定することが多いのですが、Op.65からOp.73までとOp.75からOp.84の作品番号に関して手紙の資料がありません。そんなわけで確証を得られないのでDan Fogも「ca.」=「およそ」と言って推量しています。Op.80/81に関しては「ca. 1826年」としているのは出版年から割り出したものと思われます。この作品に関してSimrockとのやりとりの書簡が無いのです。会話帳に出ていたErがSimrockであったならばウイーンで書かれた6曲のDuoが作品80と81だということに真実性があります。

以下の表はOp.80/81近辺の作曲年、出版年、出版社の一覧です。

  作曲年 出版年 出版社 曲名
65 ca.1823/24 1825 Böhme オペラ『ルル』(ピアノスコア)
66 ca.1824 1825 Cranz 3曲のソナチネ(ピアノ連弾)
67   ca. 1825 Lose 6曲の男声四重唱曲
68 ca. 1825 1825 Milde 6曲のディヴェルティメント(フルート+ピアノad.lib.)
69 ca. 1825 1826 Böhme フルートソナタ ト長調
70 ca. 1826 1826 Cranz 3曲のロンド(ピアノ連弾)
71   1826 Simrock&Farrenc フルートソナタ ホ短調(ゼルナーに献呈)
72a ca. 1826 1826 Simrock&Farrenc 変奏曲(ピアノ連弾)
72b 1821-23 1823 Cranz 3曲の歌曲
73 ca. 1826 1826 Lose 3曲のロンド(ピアノ)
74 1825-26 1826 Peters 『ウイリアム・シェイクスピア』(序曲のパート譜のみ)
75 ca. 1826 1826/27 Cranz 変奏曲(ピアノ連弾)
76 ca. 1826 1827 Cranz 変奏曲(ピアノ連弾)
77 ca. 1826 1827 Cranz 変奏曲(ピアノ連弾)
78   ca. 1827 Cranz 2曲の歌曲
79 ca. 1827 1827 Lose 3曲のヴァイオリン・ソナタ
80 ca. 1826 1827/28 Simrock&Farrenc 3曲のフルート二重奏曲
81 ca. 1826 1827/28 Simrock&Farrenc 3曲のフルート二重奏曲
82 1826 1828 Simrock 9曲の男声四重唱曲
83 ca. 1826 1827/28 Simrock 3曲のフルートソナタ
84 1827 1827 Lose 3曲のロンド(ピアノ)
85 1826 1827 Schott フルートソナタ イ短調

作曲年の数字(みどり)=資料などにより判明しているもの 出版年はDan Fogの調査による。=信用に足るもの

もうひとつ気になるのはOp.71のフルートソナタがべートーヴェンと面会した時に同道したウイーン音楽院のオーボエ教授ゼルナーに献呈されていることです。と言うことはOp.71は少なくとも1825年9月〜出版年(1826年)の期間の作品となります。それ以前にゼルナーとの面識はなかったのですから。Dan FogのカタログではOp.71の作曲年はブランクになっています。あくまでも私の推量ですがOp.71はウイーン旅行中の作品ではないかと考えています。帰国してから出版されたのでしょう。とすると同じ時期に書かれた6曲のフルート二重奏曲がかなり間隔を開けて出版されたことになります。その間に『ウイリアム・シェイクスピア』のOp.74が出版されています。(この曲は作者ボイエとの書簡が残っています。それによるとウイーンから帰った後、1825年10月頃から作曲を始めています。)
Simrockが買い取った二重奏をその時(1827/28)まで温存していたのか?(前金をもらっていたからには作品はすぐにもSimrockに提供されるべきですから)。あるいは、クーラウは『ウイリアム・シェイクスピア』作曲後にOp.80.81として(82.83も同じ時期に)Simrockに提供したのか?

Dan Fogのテーマティッシュ・カタログではOp.80とOp.81の作曲年はca.1826 (1826年頃)となっています。FogはOp.80とOp.81はウイーンから帰国後に作曲したものと理解したのでしょう。そうでなければ作曲年を1825としていたはずです。それならばウイーンで書かれたものはどこに行ってしまったのでしょうか。

前述のErが誰か外の出版社の人物で、「渡した6曲は出版されずにどこかにしまわれている」という楽天的な推理も可能です。

以上のような事柄からその真相(ウイーンで作曲した6曲のDuoがOp.80とOp.81であるということ)は未だ闇に包まれていると言ってよいでしょう。

石原 利矩(2012.4.22記)